エホバの証人からの質問
ある誠実なエホバの証人の兄弟は、「ものみの塔」の教えが破綻していることに気づいています。その方は聖書の理解を求めて、クリスチャンのバプテスマや、啓示の144,000人や、マタイ25章の羊やイザヤ書2章、ミカ書4章の予言について尋ねてきました。
それらの質問に対する聖書からの答えです。
バプテスマについて
人が救われるためにはバプテスマを受ける必要がありますか?どういう人が受けますか?
どこで受けますか?
誰が施したらいいでしょうか?
バプテスマは新しい契約に入る最初のステップです。
それは、罪の許しのための悔改めの象徴であり、献身の象徴ではありません。
この点で「ものみの塔協会」は人々を欺いています。
罪人は、悔改めることが求められており献身は求められていません。
「ものみの塔」は神への献身を教え不要な重荷をバプテスマの時点で信者に負わせます。
さらに悪いことに、バプテスマの意義を変えてしまい、「神の霊によって導かれている唯一の組織」と自らを印象付け「ものみの塔」に属する信者を作り上げます。
神への献身の責任は、神の霊によって導かれている唯一の神の見える代理機関として「ものみの塔協会」の権威を認め、その指示に全面的に従うことである、と信じ込ませます。それでバプテスマにより信者の生活は「ものみの塔協会」が支配できることに同意したことを自覚させ、協会と意見を異にする際の、「ものみの塔協会」の制裁権の根拠を確立します。
これは、欺きです。
そのような解釈は、聖書から立証できません。
バプテスマは、悔改めの象徴であり、献身の象徴ではありません。
ルカ 24:47-48
その名によって罪の許しのための悔い改めがあらゆる国民の中で宣べ伝えられる-エルサレムから始めて,48 あなた方はこれらの事の証人となるのです。
使徒 2:38
38 ペテロは彼らに[言った],「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは,罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。
使徒 11:18
「それでは,神は命のための悔い改めを諸国の人々にもお授けになったのだ」。
使徒 17:30
30 確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。
使徒 20:21
21 むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです。
使徒 26:20
20 まずダマスカスの者たちに,またエルサレムの者たちにも,さらにはユダヤ地方全域に,そして諸国民にも,悔い改め,かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずるようにとの音信を伝えてまわりました。
ヘブライ 6:1
1 このようなわけで,キリストに関する初歩の教理を離れたわたしたちは,死んだ業からの悔い改め,また神に対する信仰,
ペテロ第一 3:21
21 これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです。
ペテロ第二 3:9
9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。
悔改め、という表現に注目できます。
バプテスマに関して献身という言葉自体や考えは聖書のどこにもありません。そのような教えは、「ものみの塔協会」の巧妙な欺きであり、神への献身という都合のいい教えにより信者に献身の責任を負わせて心理的に縛り、自らの目的に仕えさせています。
エホバ神は私たちに献身を求めておられません。
神が求めておられることは、悔改めです。それが神と共に歩む最初の一歩です。
それでこの悔改めはいつでも生じ得ます。
「ものみの塔協会」が教えるように、聖書の正確な知識を得て悔い改めて転向して意を決して祈りで献身してバプテスマというプロセスは聖書中の例と調和しません。
たとえば、
イエスの傍らの刑柱上で悔改めた犯罪人は、正確な知識や献身によらず、イエスからパラダイスの約束を頂きました。
フィリピにおいて、パウロとシラスのローマ人の牢番は地震を含め生じた奇跡により心を神に向け一晩で家族共々バプテスマを受けました。
神と共に歩む第一歩は、神への献身により責任を意識しそれを果たそうとすることではなく悔改めにより神の導きと救いを求めることです。
神への献身という非聖書的な教えにより、「ものみの塔協会」は献身的な生き方を奨励し自己犠牲を美化しバランスの欠いた全時間の奉仕活動へ人々を駆り立てます。それによりある人々は誠実に献身の責任を果たそうとする精神態度から身も心も燃え尽きてしまい、落伍者のような気持ちにさせられたり、最悪の場合自殺する方さえいます。
献身とバプテスマは、「ものみの塔協会」への入会儀式であり、聖書の教えではありません。
人が救われるためにはバプテスマを受ける必要がありますか?
その可能性は否定しませんが、地にあるものにとって水のバプテスマは必要条件ではないと思います。
地にあるものたちとは、地上の楽園での永遠の命を受け継ぐ人たちです。
アダムの家族の大半が地にあるものとなります。
地にあるものは、復活か、大艱難を通過するかして地上の命の祝福を受けます。
復活する人々は、死によって過去の罪が制裁を受け清算されていますので悔改めが要求されるか疑問です。
大艱難から出てくる人々は、キリストを知らない誰も数えつくせない数の諸国民ですから、状況からしてバプテスマは要求されていないと思います。
もちろん、復活して来る人たちも、大艱難から出てくる人たちも、死や大艱難から救われた後にキリストの贖いについて学び誰が救いを備え施して下ったかについて学ぶでしょう。
キリストの贖いによって衣を白くすることが、双方に要求されることは確かですが、バプテスマが要求されるかどうかについて聖書は述べていません。
キリストを受け入れた刑柱上の罪人はバプテスマを受けていませんが、地上における命の約束を得ています。
ルカ 23:42-43
42 そして彼はさらに言った,「イエスよ,あなたがご自分の王国に入られる時には,わたしのことを思い出してください」。43 すると[イエス]は彼に言われた,「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」。
復活する人々は過去の罪の許しを既に得ています。
ローマ 6:7
7 死んだ者は[自分の]罪から放免されているのです。
諸国民の大群衆は王国の子たちを知りませんのでバプテスマも知らないでしょう。
マタイ 25:37-40
37 その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり,渇いておられるのを[見て]飲む物を差し上げたりしたでしょうか。38 いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり,裸なのを[見て]衣を差し上げたりしたでしょうか。39 いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。40 すると,王は答えて言うでしょう,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』。
どういう人が受けますか?
キリストを受け入れた人々が受けます。
それらの人々は王国の子たちです。
それはまた、天にあるもの、神のイスラエル、新しい創造物、アブラハムの胤、キリストと共同の相続人と表現されている人たちです。
まず、バプテスマは、キリストへのバプテスマであって、「父と子と聖霊の名による」ものではありません。
マタイ 28:18-20
18 . . .「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。
三位一体の教理が採択される前、西暦300年ごろエウセビオス(西暦4世紀の歴史家、聖書注釈家)は、「父と子と聖霊との名において」ではなく「私の名において」と表現しています。
マタイ 28:18-20
18 . . .「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,
三位一体の教理が採択される前、西暦300年ごろエウセビオス(西暦4世紀の歴史家、聖書注釈家)は、「父と子と聖霊との名において」ではなく「私の名において」と表現しています。
その「私の名において」という表現は以下の他の聖句と調和しています。
使徒 2:38,
38 ペテロは彼らに[言った],「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは,罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。
使徒 8:15-16
15 それでふたりは下って行き,彼らが聖霊を受けるようにと祈った。16 それは彼らのうちのだれにもまだ下っておらず,彼らはただ主イエスの名においてバプテスマを受けていただけだったからである。
使徒 10:48
48 そうして,イエス・キリストの名においてバプテスマを受けるようにと彼らに命じた。それから彼らは,幾日かとどまるようにと彼に頼んだ。
使徒 19:5
5 これを聞くと,彼らは主イエスの名においてバプテスマを受けた。
ローマ 6:3
3 それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。
マルコ 10:38-39
38 しかしイエスは彼らに言われた,「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は,わたしが飲んでいる杯を飲み,またわたしが受けているバプテスマを受けることができますか」。39 彼らは,「できます」と言った。するとイエスは言われた,「あなた方はわたしが飲んでいる杯を飲み,わたしが受けているバプテスマを受けるでしょう。
ガラテア 3:27
27 キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。
イエス・キリストの名において
主イエスの名において
キリスト・イエスへの
キリストへの
などの表現に注目できます。
それでマタイ 28:19 は、
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,私の名において彼らにバプテスマを施し,が本来の姿であるといえます。
では、キリストへのバプテスマを受ける人は誰ですか。
キリストの追随者となる王国の子たちです。
彼らは、キリスト同じように犠牲の死を経験し、キリストと同じように天に復活します。
どこで受けますか?
誰が施したらいいでしょうか?
誰が施したらいいでしょうか?
水のあるところですね。
風呂、プール、川、海などです。
クリスチャンが施します。
一人でできます。
儀式など必要ありません。
フィリポやパウロの例はそのことを示しています。
使徒 8:38-39
38 そうして彼は,兵車に,止まるように命令し,ふたりは共に,フィリポも宦官も水の中に下りて行った。そして[フィリポ]は彼にバプテスマを施した。39 彼らが水から上がって来ると,エホバの霊がフィリポを急いで連れ去り,宦官はもう彼を見なかったが,歓びながら自分の道を進んで行った。
使徒 18:30-34
30 そして,彼らを外に連れ出してからこう言った。「皆様,救われるためにわたしは何をしなければなりませんか」。31 彼らは言った,「主イエスを信じて頼りなさい。そうすれば救われます。あなたも,あなたの家の者たちも」。32 そして,ふたりはエホバの言葉を彼に,またその家にいるすべての者に語った。33 そののち彼は,夜のその時刻にふたりを連れて行ってそのむち跡を洗った。そして,彼もその[家の者]もひとり残らずすぐにバプテスマを受けた。34 それから彼はふたりを自分の家の中に連れて来て,その前に食卓を据え,自分が神を信じるようになったことを家の者たちすべてと共に大いに歓んだ。
144,000人は文字通りの数ですか、象徴ですか?
144,000人という数は、イスラエルの12部族からそれぞれ12,000人ずつ取られた合計人数です。このイスラエルの12部族は文字通りの生来のイスラエル12部族のことではありません。
それは全人類の象徴です。
また、12,000人をどう見るかは聖書に明確に書かれていません。
しかし、全人類を12等分し、その各部族から12,000ずつとなると、等分比の象徴のように思います。
つまり、全人類の各部族から同じように公平に選ばれることの象徴とみなすことが無理の無い素直な見方と思います。
それで、その合計の144,000人という数は、全人類の各部族から公平に選ばれた「王国の子たち」の象徴とみなせます。
ですから、144,000という文字通りの数ではないものの、「王国の子たち」の数には限りがあると言えます。
この見方は、王国を与えられる「小さな群れ」という表現や、ローマ7章の「オリーブの木の枝」のたとえ話と調和します。
天に行く「王国の子たち」の数は限られたものであり、人類大半と比べて「小さな群れ」と呼べる規模だと思います。
西暦1世紀以降「王国の子たち」を集める業が始まり、キリストが「主の日に」帰還するまで続きます。
今日まで2000年が経過していますが、既に何人の「王国の子たち」が集められたか考えてみると、優に文字通りの144,000人の数を超えます。
西暦1世紀だけでも、殉教したクリスチャンの数は50万人を超えていると見なされていますので、144,000という数を文字通りに取ることはできません。
啓示 5:9-10
9 そして彼らは新しい歌を歌って言う,「あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしい方です。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。10 そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」。
啓示 14:3
3 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような[歌]を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。
そしてこれらの地から買い取られたアブラハムの胤である144,000人は啓示7章で象徴的なイスラエルの12部族から12,000人ずつ均等に取られることが示されています。
啓示 7:4-8
4 そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。
5 ユダの部族の中から12,000人が証印を押され,
ルベンの部族の中から12,000人,
ガドの部族の中から12,000人,
6 アシェルの部族の中から12,000人,
ナフタリの部族の中から12,000人,
マナセの部族の中から12,000人,
7 シメオンの部族の中から12,000人,
レビの部族の中から12,000人,
イッサカルの部族の中から12,000人,
8 ゼブルンの部族の中から12,000人,
ヨセフの部族の中から12,000人,
ベニヤミンの部族の中から12,000人が証印を押された。
地から買い取られたアブラハムの胤である144,000人は、
あらゆる部族と国語と民と国民の中から
イスラエルの子らのすべての部族から
いわば均等に、つまり公平に取られていることが分かります。
それで、
あらゆる部族と国語と民と国民 = イスラエルの子ら
と理解できます。
また、この象徴的なイスラエルの各部族から均等に取られるとされる人数の12,000は文字どおりの数とは理解できません。
なぜならあらゆる部族と国語と民と国民の数は12部族ではないからです。それで、イスラエルの12部族も、12,000人も象徴的な数であることが分かります。
象徴的な12部族から来る象徴的な12,000人の合計の144,000人を文字どおりの数とみなすより、均等にあるいは公平に取られた限りある数と見なす方が自然です。
「王国の子たち」の天的クラスは、地のあらゆる民族から、つまり人類の「世」から公平に取られるでしょう。
マタイ25章の羊について
マタイ25章に出てくる神の恵みを受ける「羊」は誰を、あるいはどの人々をさすと思いますか?大艱難を生き残る神を恐れる諸国民です。
宗教、イデオロギー、バプテスマなどに関係なく、諸国民の中の憐れみ深い人たちです。
彼らが救われるのは、王国の音信に応じて悔改めてバプテスマを受けるからではありません。
憐れみ深い人たちへの神の憐れみによって救われます。
それらの人々の大半は「王国の子たち」を知らないでしょう。
ですから、たとえ話の中の羊のように自分が救われる理由が分かりません。
「王国の子たち」は彼らの救いに関して義務も責任もありません。
それはキリストの裁きによる救いの業でありわたしたち「王国の子たち」と関係ありません。
「王国の子たち」は「王国の子たち」を集める業を行うのであって、大艱難を生き残る羊の「大群衆」を集める業を委ねられているのではありません。
私たちの宣べ伝える業でキリストを信じてバプテスマを受ける人は「王国の子たち」です。
私たちの宣べ伝える音信を聞いても信じられない人についての義務も責任もわたしたちにはありません。
ですから、無神論者であっても、仏教徒であっても、キリスト教、その他あらゆる種類の人々に聖書から真理を伝えることはできますが、その人の救いのためと思って私たちの信仰や希望を押し付けるようなことはありません。その必要はないからです。
諸国民の義なる者たちは、神の憐れみにより大艱難を生き残るでしょう。
マタイ 5:7
7 「憐れみ深い人たちは幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです。
ヤコブ 2:13
13 憐れみを実践しない人は,憐れみを示されることなく[自分の]裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
ローマ 2:6-11, 14-15
6 そして,[神]は各々にその業に応じて報います。7 良い業における忍耐によって栄光と誉れと不朽性とを求めている者には永遠の命です。8 一方,争いを好み,真理に従わないで不義に従う者に対しては,憤りと怒り,9 患難と苦難があります。それは,有害な事柄を行なうすべての人の魂に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にも臨みます。10 しかし,栄光と誉れと平和が,良い事柄を行なうすべての人に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にもあるのです。11 神に不公平はないからです。
14 律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法にある事柄を行なう場合,その人たちは律法を持ってはいなくても,自分自身が律法なのです。15 彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が彼らと共に証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです。16 わたしが宣明する良いたよりにしたがえば,神がキリスト・イエスを通して人類の隠れた事柄を裁く日に,このことはなされます。
マタイ 25:37-40
37 その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり,渇いておられるのを[見て]飲む物を差し上げたりしたでしょうか。38 いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり,裸なのを[見て]衣を差し上げたりしたでしょうか。39 いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。40 すると,王は答えて言うでしょう,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』。
啓示 7:14
14 それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
大艱難から出てくる諸国民の大群衆が長い衣を子羊の血で洗って白くするのはいつでしょうか。
大艱難の前ですか、それとも大艱難の後でしょうか。
答えは、大艱難を通過して後からです。
救いを経験した憐れみ深い諸国民の大群衆は、自らの救いの源について学ぶことになるでしょう。
英語の聖書では、その時制が「and」でより明確に示されています。
啓示 7:14
14 . . . "These are the ones that come out of the great tribulation, and they have washed their robes and made them white in the blood of the Lamb.
地にあるもので象徴される人類の大半の救いは、神からの救いが先で、その後救いの源についての正確な知識を得ることになります。
復活して来る無数の死者は真の神について何も知らないでしょう。
大艱難を通過する数えつくせない大群衆も同じです。
ですから神についての正確な知識が救いをもたらす必要条件ではありません。
テモテ第一 2:4
4 [神]のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです。
「ものみの塔」は、真理の正確な知識を得て、献身して、救われます、と逆のことを教えています。
イザヤ書2章、ミカ書4章の預言について
イザヤ2章やミカ4章に出てくる神の山は何を表しますか?「みんなで登ろう、神が教えてくれるから」とありますが、今日はどこで行けばよいですか?それともこれは最後の裁きが終わった後のことでしょうか?この予言は、大艱難から出てくる諸国民の大群衆に関する予言です。
ここでも時点が問題となります。
大艱難前の状況でしょうか、それとも後の状況でしょうか。
聖句を読むとそれが大艱難後の状況であることが分かります。
ミカ 4:1-4
1 そして,末の日に(in the final part of the days ),エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められる。もろもろの民は必ず流れのようにそこに向かう。2 そして,多くの国の民が必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである。3 そして,[神]は多くの民の間で必ず裁きを行ない,遠く離れた強大な国々に関して事を正される。それで彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。4 そして彼らはまさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,[これを]おののかせる者はだれもいない。万軍のエホバの口が[これを]語ったのである。
大艱難の前の世界の状況は、真の崇拝が高められる状況ではありません。
この予言は、キリストによる征服が完了した後の状況と見ると極めて簡単に納得できます。
「ものみの塔」は、大艱難の前に神の真の崇拝が高められると逆のことを教えて自分たちの組織拡大に都合よく予言を利用してきました。
サタンの支配の終わりの日は戦いのときであり、諸国民の軍拡競争のときです。
それはまた、真の崇拝の弾圧のときであり、野獣崇拝(サタン崇拝)のピークのときでもあります。
啓示 6:2
2 そして,見ると,見よ,白い馬が[いた]。それに乗っている者は弓を持っていた。そして,彼に冠が与えられ,彼は征服しに,また征服を完了するために出て行った。
啓示 12:12
12 このゆえに,天と[天]に住む者よ,喜べ! 地と海にとっては災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りを抱いてあなた方のところに下ったからである」。
啓示 6:8
8 そして,見ると,見よ,青ざめた馬が[いた]。それに乗っている者には“死”という名があった。そして,ハデスが彼のすぐあとに従っていた。そして,地の四分の一に対する権威が彼らに与えられた。長い剣と食糧不足と死の災厄をもって,また地の野獣によって[それを]殺すためである。
啓示 11:7
7 そして,彼らが自分たちの証しを終えた時,底知れぬ深みから上る野獣が彼らと戦い,彼らを征服して殺すであろう。
啓示 13:7-10
7 そして,聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され,あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた。8 そして,地に住む者は皆それを崇拝するであろう。ほふられた子羊の命の巻き物には,彼らのうちのだれの名も,世の基が置かれて以来書かれていない。
9 耳のある者がいるなら,聞きなさい。10 捕らわれの身となる[はずの]者がいるなら,その者は捕らわれの身となる。剣で殺す者がいるなら,その者は剣で殺されなければならない。ここが聖なる者たちの忍耐と信仰を意味するところである。
これらの聖書予言は、ミカ書やイザヤ書に書かれている予言が大艱難前の時代ではありえないことを強力に示しています。
しかし、ひとたびサタンの世が大艱難により一掃されて、諸国民の中の廉直な人々が地に生き残ると、それらの予言の一こま一こまは極めてパーフェクトにあるべきところに収まり美しい絵を描きだします。
偽預言者、大いなるバビロンはもはやありません。
エホバ神の清い崇拝だけになります。
諸国民の生き残った人々は神の王国の導きと祝福の下に置かれます。
エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められる。もろもろの民は必ず流れのようにそこに向うでしょう。
救いを経験した諸国民の憐れみ深い人々は、「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」と言うでしょう。
神の道を学んだ諸国民にとって武器を人類の益のために打ちかえることは自然なことでしょう。
その結果は、人々は、各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,[これを]おののかせる者はだれもいない、ということです。
箴言 2:21-22
21 廉直な者たちが地に住み,とがめのない者たちが[地]に残されるからである。22 邪悪な者たちは地から断ち滅ぼされ,不実な者たちは[地]から引き抜かれるのである。
3 件のコメント:
sk様
とても啓発的な記事だと思います。ありがとうございます。
ものみの塔の奴隷みたいになるのが非聖書的なのは明らかです。
いくつか質問させて下さい。
1、
「神は献身を求めていない」、とありましたが、それはクリスチャン以外の、憐れみ深い、生き残る人々のことを言っておられますか?
と言いますのは、聖書は、神の僕に、神への全面的な服従を求めているように見えるからです。
(マタイ16:24;啓示2:10など)
2、
無理やり証言しなくて良い、という内容のことも書かれていました。そのやり方はとても良いと思います。ですが、聖書は、伝道することもクリスチャンに勧めています。
真理を他人に伝えるクリスチャンの責任に対する、聖書的な態度とはどのようなものですか?
Q1
献身につてい、
人は悔い改めてキリストの弟子(クリスチャン)となります。
献身してではありません。
クリスチャンは、献身と呼ばれる地位 (status) を得るのではありません。
聖書中にそのような地位はありません。クリスチャンも普通の人たちです。
それで、聖書中に使用されていない「献身」という言葉や概念を、あえて持ち込みバプテスマに不要な意義を付加する正当性はないと思います。
クリスチャンは、悔い改めた罪人であり、神とキリストを信じて生きる普通の人たちです。
献身という言葉の印象は、組織宗教の階級制度の地位や立場を連想させますし、事実そのように使われています。
それで、献身という地位や立場を連想させる言葉ではなく、行為を表す言葉を用いてクリスチャンの活動を表現する方が自然ですし、聖書もそのように書かれています。
たとえば、
「神、キリスト、また互いに奴隷として使えなさい」とか、「良い業に専念する、打ち込む」とか、「りっぱな業に熱心な民」とか、「救われるために精力的に努力しなさい」などの表現が使われています。
dedicate(献げる、献納する、専念する、打ち込む、捧げる)より、
devote(打ち込む、つくす、~を捧げる), be absorbed in(打ち込む、夢中になる、身、身をやつす、没入する、…に余念がない、身を入る)などでクリスチャン活動が描かれています。
ポイントは、クリスチャンの立場は献身の地位(あるいは立場)ではありません。
クリスチャンは神の愛に答え応じて熱心に神とキリストに奴隷として使えます。
そして、奴隷に求められていることは、忠実で思慮深く振舞うことです。(ルカ 12:42-43, 1コリント 4:1-2)
バプテスマは悔い改めの象徴であり、献身の誓いではありません。
わたしたちは、誓ってクリスチャンになったのではありません。悔い改めてクリスチャンになりました。
バプテスマについては以下のリンクをお読みください。
https://bible9.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
Q2
宣べ伝えることについて、
これは、口があれば、いつでもどこでもできます。
機会を見つけて語れます。
親族、友人、お客さん、配達の人、近所の人、その他だれでも、チャンスを見つけて話せます。
まずは、気楽に語れる友好関係を築いてからがベストですね。
この点、宗教組織の圧力などありませんから、あせらずに人々と接するといいですよ。
人々との親し会話の中で、ふさわしい話題やタイミングで神や悪の終わりや楽園などについて話せますね。
人々を組織に導く下心などないので、本当に相手の立場になって、その人に負担とならないように少しずつ話せます。
そして、話す話題は沢山あります。
その人が受け入れなくても、
自分の信じていることを押し付けることなく話せば良いだけですね。
社会がインチキで満ちていますので、インチキに気づいている人たちは多いと思います。
そのような人たちに、インチキ社会を裁く人がいないことを話せますね。
インチキ社会を裁ける方は神だけであることを話せますね。
聖書が手元になくても、思い心と口で話せますね。
1回の話しで、その人が神に思いを向けることなど期待せずに、その人の立場に立って友好関係を保っていれば、次の会話の機会がいくらでも訪れます。
そんなに、難しくないですよ。
パウロは牢屋の中でも、キリストについて話せました。
そして、「獄につながれていても,神の言葉がつながれているわけではありません。」と言っていますね。(2テモテ 2:9)
必要であれば、神に「語る機会をください。」と祈るとよいですよ。パウロを含め多くの使徒たちもそのように祈っています。
ネットに書いて残すのは立派な証言になりますね。頭の整理にもなるし一石二鳥です。エホバの証人の一軒一軒回る伝道は無意味でそれをするなら一世紀みたいな施しでいいと思います。それをしないならエホバ教のサイトが既にネットで誰でも見れるわけ何で一々家々を回ったりメガフォンで宣伝もしなくていいでしょう。もうメディアを通してエホバの証人は知られましたし、興味あるならサイトを調べてみると思います。
宣べ伝えるとは、エホバの証人の広告塔となることより一世紀当時はインフラもウェブもなかったので家々で講演をしていただけでして、今はネットです。文章も残るしサタンが作った土壌とはいえ、有益な内容を発信することができます。それ以外でするなら「施し」になりますが、基本ネットで文章書いて残してたらいいでしょう。
現役もこのブログ見てるでしょうし、組織崇拝を辞められると嬉しいですね。
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