アマレク人
アマレクはエサウの孫で、アマレク人はパレスチナの南東部のエズレルの谷からアラビアのアラバまで広域の領土に住んでいました。アマレク人は出エジプトのイスラエル人に敵対して攻撃した最初の民でした。レフィディムでの戦いの際、モーセが両腕を上げている間はイスラエルが優勢となり、腕がさがるとアマレク人が優勢となるので、アロンとフルはそれぞれモーセの腕を日暮れまで支えてアマレク人を撃退しました。その場所はエホバ・ニシ(エホバはわたしの旗印)と呼ばれています。(出エジプト 17:1-16)
神はアマレク人を含むカナン人の根絶を要求しましたがイスラエル人は神の要求を果たせませんでした。そのために後代まで神の敵による苦難が生じています。
神の刑執行者
聖書中の出来事は残虐行為を勧めるものではありません。それは悪の処刑です。
アマレク人は自然に背く行為で地を汚しました。
それで神はイスラエル人を刑執行者として用い悪を処罰なさいました。
それは、ノアの時代の滅びやソドムとゴモラの滅びと同じです。
古代イスラエルにおいて処刑は石打でなされました。
死体は焼かれたり、刑柱上にさらされました。
また、諸国民に対する剣による処刑もありました。
また懲らしめの鞭打ちの刑もありました。
犯罪行為の犠牲者保護の実際的な取決めも与えられていました。
例えば、盗みに対して5倍の賠償が求められました。
これらの処罰は道徳の崩壊の強力な防波堤となっていたと思います。
しかし、イスラエルは周囲の諸国民の道にならい道徳崩壊と司法制度の腐敗を招きました。
今日では死刑は、ギロチン、絞首刑、電気椅子、その他で執行されます。
しかし、人々は死刑廃止を望んでいます。
そして伝道の書のことばのとおりの結果を刈り取っています。
伝道の書 8:11
11 悪い業に対する刑の宣告が速やかに執行されなかったため,それゆえに人の子らの心はその中で悪を行なうよう凝り固まってしまった。
それで、現在の司法制度による処罰の基準により神の処遇を裁く妥当性はありません。
死刑をある人が残虐行為とみなしたからと言ってそれが残虐行為になるのではありません。
それは、それに相当する悪行に対する処罰であり、命の切断による罪の代価の支払いに過ぎません。
ローマ6:23
23 罪の報いは死ですが,. . .
では、ある行為の残虐性、または正当性を決定する最もふさわしい方だれでしょうか。
事情を良く知らない第三者でしょうか。
それともその裁きの執行を命じた神ご自身でしょうか。
神に勝る裁き主がいますか。
ヤコブ 4:12
12 立法者また裁き主である方はひとり,それは救うことも滅ぼすこともできる方です。
詩篇 11:15
5 エホバは義なる者をも邪悪な者をも自ら調べ,
その魂は暴虐を愛する者を必ず憎む。
すべての行為は知識の限りのある人間によって正確に評価されるのではありません。
ある行為の残虐性、あるいは死に値するかどうかは神により正確に評価されます。
サムエル第一 2:3
3 あなた方は余りごう慢に多くを語ってはなりません。
慎みのないことを何もあなた方の口から出すことがありませんように。
まことにエホバは知識の神であられ,
この方によってもろもろの行ないは正しく評価されるからです。
今日神は処刑の権威の行使を人間の政府にゆだねています。
ローマ 13:1-41 すべての魂は上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。2 したがって,権威に敵対する者は,神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます。3 支配者たちは,善行にではなく,悪行にとって,恐れるべきものとなるのです。それで,あなたは権威に対する恐れを持たないでいたいと思うのですか。善を行なってゆきなさい。そうすれば,あなたはそれから称賛を受けるでしょう。4 それはあなたの益のための神の奉仕者だからです。しかし,もしあなたが悪を行なっているのであれば,恐れなさい。それはいたずらに剣を帯びているのではないからです。それは神の奉仕者であり,悪を習わしにする者に憤りを表明する復しゅう者なのです。
神はイスラエル人をご自分の刑執行者として用いてアマレク人に死刑を執行しました。その神の刑の執行を人が残虐行為と主張したからといって、それがそうなるのではありません。
神は刑執行者としてイスラエル国民だけなく諸国民も用いています。イスラエル人はアマレク人の刑執行を行いましたが、後に自らも同じ悪事のためにバビロニア人により処罰されました。またイエスを退けたためにローマ人により処罰され神の民の立場を失いました。
(神により刑執行者として用いられた国民、バビロン、アッシリア、エジプト、ペルシャ、シリア、ローマ、その他)
神により処刑された邪悪な者たちは数多くいます。
それらの邪悪な者たちに希望はあるでしょうか。
神のことばから分かることは、
死は罪の報いであり、処刑された者たちは自らの罪の代価を死により支払いました。
また、聖書は義者と不義者の復活を約束しています。
ヨハネ 5:28-29
28 このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。29 良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと[出て来るのです]。
いとうべきことを習わしにした者たちも復活するでしょう。
使徒 24:15
15 そしてわたしは神に対して希望を持っておりますが,その希望はこれらの[人たち]自身もやはり抱いているものであり,義者と不義者との復活があるということです。
多くの不義者は、復活により命にもどされて再び命の機会を与えてくださった神と神の義の基準について知らされるでしょう。
その者のがその機会を感謝して活用して神の義なる裁きに服せばその者は幸いです。
神に処刑されたカナン人、紅海で処刑されたエジプト人、コラ、アカン、カイン、ユダ、ソドムとゴモラの人たち、ロトの妻、アナニアとサッピラなど聖書中の邪悪なキャラクターが復活するでしょう。
もちろん誰が復活するかを決めるのは神ご自身なので、この点で誰も独善的な主張はできません。
それで、乳児を含めカナン人の処刑された人たちについて希望が無いのではありません。
また死は意識の無い状態でありそのこに苦痛はありません。復活の時まで命の恵みのうちにいないだけのことです。
それで限られた人間の視点で、神の処置を邪悪などとしない人は幸です。
それは、神の救出の計画のほんの一コマであり、処刑された者たちにさえ神の計画による将来があることに気付いてください。
死や正当な処刑は悪の終わりを意味しています。
それは悪を行う者にとっても、その悪により害を被っている者にとっても悪からの開放を意味しています。死や処刑は悪のリセットであり、 将来の矯正や償いのための第一歩にすぎません。
死は無意識無活動で存在の消滅で、将来の命の回復の希望を伴っています。
神はすべての悪の尻拭いをなさるおつもりです。
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