神とキリストの自己犠牲
サタンとアダムによる不従順による問題の解決として、神がその場で宣言された預言は、蛇が女の胤のかかとを砕くことを含んでいました。創世記 3:15
15 そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。
このかかとを砕くことは、女の胤の死と復活を意味していました。
つまり、神のキリストは、死に、その後復活することが定められていました。
イエスはそのことを十分わきまえており、地上での宣教活動が終わる1年くらい前から明確にご自分の死と復活について弟子たちに語り始めました。
マルコ 8:27-38 (マタイ 16:13-28、ルカ 9:18-27)
27 イエスと弟子たちは次にカエサレア・フィリピの村々に向かわれた。そして,その途中で,[イエス]は弟子たちに質問しはじめ,「人々はわたしのことをだれだと言っていますか」と言われた。28 彼らは言った,「バプテストのヨハネ,ほかの者は,エリヤ,さらにほかの者は,預言者の一人,と」。29 すると[イエス]は彼らに質問された,「だが,あなた方は,わたしのことをだれであると言いますか」。ペテロが答えて言った,「あなたはキリストです」。30 すると[イエス]は,ご自分のことをだれにも告げないようにと彼らに厳重に言い渡された。31 また,人の子が必ず多くの苦しみに遭い,年長者・祭司長・書士たちに退けられて殺され,三日後によみがえることを,彼らに教え始められた。32 実際,[イエス]ははっきりとそのことを言っておられた。ところが,ペテロは彼をわきに連れて行って叱り始めた。33 [イエス]は向きを変え,弟子たちのほうを見ながらペテロを叱り,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」と言われた。
34 次いで[イエス]は群衆を弟子たちと一緒に自分のもとに呼んで,こう言われた。「わたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。35 だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです。しかし,だれでもわたしと良いたよりのために自分の魂を失う者はそれを救うのです。36 人が全世界をかち得ても,それによって自分の魂を失うなら,いったい何の益があるでしょうか。37 人は自分の魂と引き換えにいったい何を与えるのでしょうか。38 だれでも,この罪深い姦淫の世代にあってわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も,聖なるみ使いたちと共に自分の父の栄光のうちに到来する時,その者を恥じるのです」。
キリストの役目がよく分かるこの弟子たちとのやり取りの中で、イエスは、ご自分の死と復活を語り始めています。そして、同じように命を失う覚悟を弟子たちに励ましました。
それは、創世記 3:15 の女の胤が蛇(サタン)によりかかとを砕かれることの成就となりました。
また、このキリストの犠牲の死はイエスの同意なしには生じないことになっていました。
ヨハネ 10:17-18
17 このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからです。それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。18 だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。このことに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」。
このようにキリストは死ぬ必要がないのに、別の表現では、死に値する罪がないのに、罪のない命を自らなげうつことになっていました。何のためでしょうか。アダムの罪を贖うためです。アダムの不従順による不利な判決を、ご自分の従順によって元に戻すためです。キリストの犠牲の死により、倫理的、法的な要求が満たされアダムの子孫の救済が可能となりました。
キリストの死は、憎しみやあざけりの試練の中での苦痛を伴う死でした。
それによってわたしたちの救いが可能となりました。「彼の打ち傷によってあなた方はいやされました」と言われているとおりです。(ペテロ第一 2:24)
それは、人類への神とキリストの関心の深さと愛の表れでした。
ヨハネ 15:12-13
12 わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛すること,これがわたしのおきてです。13 友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません。
つまり、神とキリストは、わたしたちのために苦痛を伴う最大の犠牲を惜しまなかったということです。
なぜ神とキリストはそこまでしてわたしたちを助けたいのでしょうか。
それは、わたしたちの可能性を信じているからです。
アダムから不従順の傾向を受継いで生まれてはいますが、わたしたちひとりひとりは、キリストのようになる可能性を持っています。神はご自分の理知ある被造物の忠誠、従順に全幅の信頼をお持ちです。ですから、その可能性、というより確実性のために喜んで最大の犠牲を払われました。
このようにまず神がわたしたち罪人に信頼を示し自己犠牲の愛を表されました。
アブラハムとイサクの劇は、人類の救出のために神とキリストが行なうことの予型でした。
アブラハムとイサクによる預言的な劇
神がアブラハムにイサクを犠牲として要求されたときイサクは青年であり自らの意思を表明できる年齢でした。それでこの親子が同意して行なおうとした事は彼らの信仰の表明でした。
アブラハムはどんな信仰を持っていたのでしょうか。
聖書は、彼が復活を信じていたことを示しています。
それは、神の約束とそれを実現する神の能力に対する信仰でした。
ヘブライ 11:17-19
17 信仰によって,アブラハムは,試された時,イサクをささげたも同然でした。約束を喜びのもとに受けた人が,[自分の]独り[子]をささげようとしたのです。18 しかも,「『あなたの胤』と呼ばれるものはイサクを通してであろう」と言われていたのです。19 しかし彼は,神は死人の中からでもこれをよみがえらせることができると考えました。そしてまた,ひとつの例えとして,確かに彼をそこから受けました。
もちろんイサクもアブラハムと同じように復活を信じていたでしょう。
この親子は、死と復活を確信してこの犠牲劇に臨んだことが分かります。
その同じ信仰がキリストを受け入れるすべての人に求められています。
なぜなら、創世記 3:15 の女の胤はかかとを砕かれることになっているからです。
それで、イエスは西暦32年のペンテコステの後、ご自分の身分(キリスト、アブラハムの主要な胤)と死と復活を語り始めた際、弟子たち(副次的な胤になる人々)に死を覚悟するように教えました。
それでキリストに信仰を働かせるすべての者にアブラハムのような信仰が期待されています。
ガラテア 3:7, 29
7 . . . 信仰を堅く守る者がアブラハムの子である . . .
29 さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です。
まとめ
神がアブラハムに独り子のイサクを犠牲として捧げるよう求めたとき、イサクは幼年期ではありませんでした。彼は、責任能力のある青年でした。この親子は復活の信仰を共有していました。また人類の救出に関する創世記 3:15 の預言も知っていました。さらにアベルが血の犠牲の必要性を理解していたように、その意味を理解していたでしょう。愛ある親であるアブラハムにとって、また青年のイサクにとって神の要求は神への信仰の試みとなりました。彼らは、神が約束を果たすことができると十分確信しており、神の要求どおり行動しました。それは、神への信頼、信仰の優れた表明であり、神はアブラハムの行為を是認して次のように述べています。
創世記 22:12
12 . . . わたしは今,あなたが自分の子,あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので,あなたが神を恐れる者であることをよく知った。
「あなたの独り子をさえ差し控えなかった」と述べられています。
それは、神ご自身がキリストを人類のために差し控えないことを示す予型となりました。
あなたが、お子さんをお持ちであれば神がどれほどの思いをもってご自分の独り子の犠牲を備えたか良く分かるのではありませんか。
神の要求は不当なものでしょうか。人間の知性や感情にとって担えないほどのものですか。
神が自ら行なわないことを、理知ある被造物に要求することがありますか。
神はすべてのことにおいて私たちに模範を示していませんか。
他の者の益のために犠牲を惜しまない愛において最初に行動されたのは誰ですか。
神の像に造られている人間はその神の愛に見習うことは不可能でしょうか。
それは可能です。神はそのことをご存知でした。
それで、信仰を持つアブラハムにご自分が行なうことの予型となる犠牲の劇を求めました。
神の信頼のとおりにアブラハムは答え応じ、神の信頼は報われました。
わたしは、このすべてに神の側の不当性を見出すことができません。
神の私たちに対する信頼と愛は完全で、神は同種の信頼と愛をもって答え応じるよう私たちに求めておらると思います。そこに不当性、神の愛の純度への疑いの余地はありません。
ヨハネ第一 4:19
19 わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです。
エフェソス 5:1-2
1 それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。2 そして,キリストがあなた方を愛し,芳しい香りとなる神への捧げ物また犠牲としてご自身をあなた方のために引き渡されたように,あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい。
ご自分の理知ある子たちへの神の愛、全幅の信頼は、神へのわたしたちの愛と全幅の信頼によって答え応じられるでしょう。それが結合の完全な絆でありそれを破壊できる力はどこにも存在しません。
利己的で、自己中心的で、誇り高く、偽りの推論で自分を欺く者は自ら神から離れるでしょう。
詩篇 73:27-28
27 ご覧ください,あなたから離れている者たちは滅びうせます。
不道徳にもあなたから去って行く者を,あなたはみな必ず沈黙させられます。
28 しかしわたしについていえば,神に近づくことは良いことなのです。
主権者なる主エホバのもとに,わたしは自分の避難所を置きました。
あなたのすべてのみ業を告げ知らせるためです。
ヤコブ 4:8
8 神に近づきなさい。そうすれば,[神]はあなた方に近づいてくださいます。あなた方の手を清くしなさい,罪人たちよ。また,あなた方の心を浄めなさい,優柔不断の者たちよ。
それで、神の行動の理由を考える時、その正当性を理解するように試みるなら見習うべきすばらしい特質を学べるでしょう。その理解はあなたを神に引寄せるでしょう。そのようにして神との関係が深まりす。やがて、あなたは天の父が日常生活の中であなたのためにして下っている親切に敏感になるでしょう。聖書の救いの音信をはっきり理解するになるにつれ心の喜びが増し加わるでしょう。そのようにして愛、喜び、平和、親切、善良 . . .といった神の霊の実をいつも示すようになるでしょう。
ダビデの姦淫の子の死について
神はダビデと王国契約を締結していました。サタンはその契約を破綻させるため人間の不完全さ用いました。
それによって契約の一方の当事者は不適格者になりました。
ダビデは姦淫、殺人の罪を犯し死刑の処罰を自らに招きました。
サタンの企みと人間の不完全さにより生じた神の目的の成就を妨げる障害を神はどのように扱うでしょうか。
神はダビデの罪を姦淫の子の命で贖いました。
姦淫の子は正当に王権の継承はできません。
それでその子をとおしてダビデとの王国契約の履行はあり得ません。
姦淫の子の死はダビデにとっての処罰の始まりとなりました。
ダビデの人生は、彼の犯した罪のため、神の宣言どおり苦難に満ちました。
「人は自分のまくものを刈り取る」の原則は誰であれつでも有効に働いています。
ダビデの人生は出エジプト 34:7 の真実さを物語っています。
出エジプト 34:7
7 愛ある親切を幾千[代]までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決してせず,父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして,三代,四代に及ぼす」。
ダビデは姦淫、殺人を犯しましたがその命は贖われました。
このことは、神がどんな邪悪な行為を犯していても真の悔改めを受け入れる用意のあることを示しています。
ダビデの事件は、真の悔い改め、罪の許し、結果を刈り取ること、について多くのことを教える生きたサンプルといえます。
サタンと不完全な人間は、神の約束の成就を妨げるかのような状況を作り出します。
これまで神は、ご自分の僕やご自分の民の罪、それによる失格をアダムの時以来ずっと扱ってこられました。
しかしそれは同時に、神の知恵、洞察、善良さ、愛、などの魅力的な特質の表れともなっており、私たちの心を強化してきました。
サタンと不完全な人間の罪のいずれもエホバ神の愛ある目的の成就を阻むことはできません。
最終的な結果は既に保証されており、すべては正され神が意図しておられる秩序が回復するでしょう。
アダムの失敗以来、他の人の罪により害を被った人は数え上げられません。
公正で愛ある神がそのすべてをご存知です。
神の定めたとき、それらの人々(胎児も含む)の人権の回復を目の当たりにするとき、わたしたちは、サタンの反逆と人間の不完全さを公正と愛で巧みに扱いご自分の愛ある約束をひとつ残らず成就された神を称えるでしょう。
ローマ 11:33-36
33 ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は[何と]たどりがたいものなのでしょう。34 「だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」,35 また,「だれがまず[神]に与えてその者に報いがされなければならないようにしただろうか」とあるのです。36 すべてのものは[神]から,また[神]により,そして[神]のためにあるからです。[神]に栄光が永久にありますように。アーメン。
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