神の霊をもつ使徒パウロとバルナバは、かって 「わたしたちも,あなた方と同じ弱さを持つ人間です。」と述べました。
不完全な人間は神の霊をうけたとしてもみな無価値な存在です。
すべて同じレベルです。
だれも特別視する必要はありません。
ローマ 3:12
2 すべて[の人]が[道から]それ,みな共に価値のない者となった。親切を行なう者はいない,一人すらいない」。
使徒 14:15
15 . . . わたしたちも,あなた方と同じ弱さを持つ人間です。
ガラテア 2:6
6 . . . 相当な人と思えた人たちとしては—それが以前どのような人たちであったかは,わたしにとって少しも相違を来たしません—神は人の外見にしたがって事を行なったりはされません。
もちろんこれは人を見下したり、敬意を示さないという意味ではありません。
クリスチャンは、他の人を自分の上におき、他の人の必要に関心を払うように教えられています。
ポイントは、神の霊の賜物があったとしても、それにより人の不完全さが無くなるのではありません。
神は、霊の賜物により達成されることより、むしろ人の心からの表現を重視しておられます。
それがその人の独自性であり、神はそれに関心があります。
コリント第一 14:14-15
14 というのは,わたしが異言で祈っている場合,祈っているのはわたしの霊[の賜物]であって,わたしの思いは実を結んでいないからです。15 では,どうすべきでしょうか。わたしは霊[の賜物]をもって祈りますが,同時に[自分の]思いをもって祈ります。わたしは霊[の賜物]をもって賛美を歌いますが,同時に[自分の]思いをもって賛美を歌うのです。
神の霊による任命、賜物は、それを受ける人を受継いだ罪から解放することはありません。
自らの不従順(罪)は自らの意思で神の霊の助けを求めて制御すべきものです。
それと神の霊による任命や賜物は無関係です。
それで神の民は、任命を受けていても受けていなくても、霊の賜物を持っていてもいなくても、神の前に同じ罪人です。それぞれの立場で自分の罪が他に及ぼす影響の大きさを認識すべきです。
ルカ 12:48
48 . . . 実際,だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます。そして,人々が多くをゆだねた者,その者に人々は普通以上を要求するのです。
ヤコブ 3:1
1 わたしの兄弟たち,あなた方の多くが教える者となるべきではありません。わたしたちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです。
ダビデの人生の記録を読むなら、ダビデは神の救いの力に対する模範的な信仰を示したとはいえ、姦淫、陰謀、殺人、自分の娘(タマル)のレイプの処理、息子た ちの闘争、契約の箱の運搬の際の違反、人口調査による処罰、その他いろいろな問題を抱えたことが分かります。
それでこの顕著な神の僕を特別視する理由はありません。
贖われたアダムの子孫の一人と見なせるでしょう。
もちろんダビデは復活してウリヤとの間で神の道にしたがって問題を正す必要があります。
いずれにしても、ダビデを含めすべてのアダムの子らは自分のまいたものを刈りとらさせられます。
感謝にあふれる謙遜な人にとって罪の償いやそれに伴う調整は受け入れがたいものではないでしょう。
彼らは喜んで謝り、償いをし、平和を回復するでしょう。
神の道を学ぶ人にとってその変化は難しいものではありません。
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