罪と死
アダムとエバが自分の命と幸福の源から離れて自らの命と幸福を踏みにじったとき、愛と公正の神は彼らを死に至らせました。それは、神の愛の表れと言えます。
なぜなら、罪はやがてそれを持つものを含めて全てを害する方向に働くからです。
もし神の介入がなければ、アダムの家族は今日まで存続できなかったでしょう。
罪人は必ず自滅の道を歩み、自らも含めて多くの人々や生き物を苦しめ死に絶えていたことでしょう。
神は、利己心と罪のおぞましい影響を誰よりも良くご存知です。
堕落してゆく罪人(自らと他のものを害する者たち)に長く続く命の賜物を与えることは極めて愛のない行為と言えます。
それで堕落した、命の賜物に値しない無価値な者が、土に戻ることによりその者の悪影響が終わります。
死は苦しみではなく、存在の終わりに過ぎず、それにより有害因子が除去されます。
ここで、驚くべきことは愛と公正の神はアダムの家族を見捨てなかった点です。
救いの胤の約束
神はアダムとエバが家族を設けることを許しました。なぜですか。
アダムの家族を救うつもりだったからです。
それは、神の側の憐れみ(過分のご親切)によります。
神はアダムとイブが罪を犯した直後、救いの胤の約束を宣言されました。
創世記 3:15
15 そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。
この約束の「女の胤」はイエス・キリストであり、この方の贖いによりアダムの家族は贖われ罪の許しと命の回復を得ることができるようになりました。
神のこの備えの故に、神はアダムの家族が罪のうちに生まれることを許されました。
罪のうちに生まれると言うことは、とりもなおさず、自らと他のものを損なう虚無を経験すると言うことです。
それを許されたのは、罪の許しと命の回復の希望が与えられているからです。
その希望を与えたのは神ご自身であり、それを備える際に神は最大の犠牲を払われました。
ローマ 8:19-21
19 創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。20 創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。21 すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。
それでアダムの家族は、そもそも命の恵に値しないにも関わらず存在が許され、希望が与えられて短い80年の命を楽しみやがて塵に戻ることが許されました。
神により処刑された邪悪な罪人を含め、ほとんどのアダムの子孫が復活して来るでしょう。
神は、殺すこと喜ばれる方ではありません。
むしろ罪の許しと命の回復を望まれています。
マタイ 12:11
11 [イエス]は彼らに言われた,「あなた方のうち,一匹の羊を持っていて,それが安息日に穴に落ち込んだ場合,それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか。
神はご自分の安息日にアダムが罪の穴に落ち込んだとき、直ちに救いを約束しアダムの家族を罪の穴から引き出す準備を開始なさいました。
それで、ある人たちの神への不信仰や神の愛ある取決めへの無知が事実を捉え損ねて神を罵ったりする原因です。
ヘブライ 9:27-28
27 そして,人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれているように,28 キリストもまた,多くの人の罪を負うため,ただ一度かぎりささげられました。そして,彼が二度目に現われるのは罪のことを離れてであり,それは,[自分の]救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。
使徒 24:15
15 そしてわたしは神に対して希望を持っておりますが,その希望はこれらの[人たち]自身もやはり抱いているものであり,義者と不義者との復活があるということです。
啓示 21:3-5
3 それと共に,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ! 神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。4 また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。
5 そして,み座に座っておられる方がこう言われた。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」。また,こう言われる。「書きなさい。これらの言葉は信頼できる真実なものだからである」。
最終的に、アダムとエバを含め悔い改めた全ての人は神の子としての命の恵みを回復するでしょう。
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