キリストの名において
クリスチャンとしての日々の生活の中であなたが伝えた隣人の誰かが聖書の教えを受け入れた場合どこへその人を導けばよいのでしょうか。イエスキリストは昇天の際、弟子たちに諸国民を教えることとバプテスマを施すことを命じられました。
マタイ 28:18-20
18 . . .「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,
三位一体の教理が採択される前、西暦300年ごろエウセビオス(西暦4世紀の歴史家、聖書注釈家)は、「父と子と聖霊との名において」の表現ではなく「私の名において」と表現しています。
その「私の名において」という表現は以下の他の聖句と調和しています。
使徒 2:38,
38 ペテロは彼らに[言った],「悔い改めなさい。そしてあなた方ひとりひとりは,罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。
使徒 8:15-16
15 それでふたりは下って行き,彼らが聖霊を受けるようにと祈った。16 それは彼らのうちのだれにもまだ下っておらず,彼らはただ主イエスの名においてバプテスマを受けていただけだったからである。
使徒 10:48
48 そうして,イエス・キリストの名においてバプテスマを受けるようにと彼らに命じた。それから彼らは,幾日かとどまるようにと彼に頼んだ。
使徒 19:5
5 これを聞くと,彼らは主イエスの名においてバプテスマを受けた。
ローマ 6:3
3 それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。
ガラテア 3:27
27 キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。
イエス・キリストの名において
主イエスの名において
キリスト・イエスへの
キリストへの
などの表現に注目できます。
それでマタイ 28:19 は、
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,私の名において彼らにバプテスマを施し、が本来の姿であるといえます。
バプテスマは悔改めの象徴
またルカ 24:47 からクリスチャンのバプテスマが献身の象徴ではなく、悔改めの象徴であることが分かります。ルカ 24:47-48
その名によって罪の許しのための悔い改めがあらゆる国民の中で宣べ伝えられる-エルサレムから始めて,48 あなた方はこれらの事の証人となるのです。
これは上記の使徒 2:38 や下記の聖句とも調和しています。
使徒 11:18
「それでは,神は命のための悔い改めを諸国の人々にもお授けになったのだ」。
使徒 17:30
30 確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。
使徒 20:21
21 むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです。
使徒 26:20
20 まずダマスカスの者たちに,またエルサレムの者たちにも,さらにはユダヤ地方全域に,そして諸国民にも,悔い改め,かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずるようにとの音信を伝えてまわりました。
ヘブライ 6:1
1 このようなわけで,キリストに関する初歩の教理を離れたわたしたちは,死んだ業からの悔い改め,また神に対する信仰,
ペテロ第一 3:21
21 これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです。
ペテロ第二 3:9
9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。
悔改め、という表現に注目できます。
バプテスマに関して献身という言葉自体や考えは聖書のどこにもありません。
そのような教えは、ものみの塔協会の欺きに過ぎません。ものみの塔協会は、神への献身という都合のいい教えにより信者を献身の責任で心理的に縛り自らの目的に仕えさせています。
エホバ神は私たちに献身を求めておられません。
神が求めておられることは、悔改めです。それが神と共に歩む最初の一歩です。
それでこの悔改めはいつでも生じ得ます。
聖書の正確な知識を得て悔い改めて転向して意を決して祈りで献身してバプテスマというプロセスは聖書中の例と調和しません。
以下の例を考えて下さい。
イエスの傍らの刑柱上で悔改めた犯罪人は、正確な知識や献身によらず、イエスからパラダイスの約束を頂きました。
パウロとシラスの牢番は地震を含め生じた奇跡により心を神に向けバプテスマを受けました。
ものみの塔協会の聖書の解釈の仕方は細部にわたり決めたがるパリサイ人の精神を反映しています。
加えてパリサイ人のように聖書的でない不要な重荷を人々の肩に負わせています。
神と共に歩む第一歩は神への献身により責任を意識しそれを果たそうとすることではなく、悔改めにより神の導きを求めることです。
神への献身という聖書的でない教えを用い、ものみの塔協会は献身的な生き方を奨励し自己犠牲を美化しバランスの欠いた全時間の奉仕活動へ人々を駆り立てます。それによりある人々は誠実に責任を果たそうとする精神態度から身も心も燃え尽きてしまい、落伍者のような気持ちにさせられたり、最悪の場合自殺する方さえいます。
ですから、私たちの聖書からの証言により隣人がクリスチャンの生き方を受け入れる場合、そのような人を、聖書にない人間の思いつきではなくキリストの教えのもとに導く必要があります。
マタイ 11:28-30
28 すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。29 わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。30 わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。
そしてクリスチャンのあなたが、キリストを受け入れた隣人にバプテスマを施すことができるでしょう。 人々を教えバプテスマを施しなさいとの命令はクリスチャン全てに与えられています。
その後バプテスマを受けた隣人とクリスチャンの兄弟姉妹として交友を楽しめるでしょう。
何時間宣べ伝えただとか、何人バプテスマに導いたなどの思いはクリスチャンの生き方と全く無関係で無意味なものです。
それでそのようなもので自分と神との関係を計るようなことをすべきではありません。
神と隣人を愛し良いたよりを他の人と分かち合い幸福に暮らしてください。
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