王国の子たちの信仰
信仰について聖書は、次のように述べています。ヘブライ 11:1
1 信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。
それで、信仰は見えない実体の論証に基づきます。
人間の目には、神は見えません。
とはいえ、パウロが説明しているように私たちは目に見えない神の存在の証拠を持っています。
ローマ 1:20
1 というのは,[神]の見えない[特質],すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。
神の霊の子たちの場合、彼らは神を見ることができます。
しかし、彼らは神が告げない限り、神の思いを見ること、知ることはできません。
ですから、ローマ 1:20でパウロが述べたことは、そのまま霊者たちにも当てはまります。
み使いたちもまた、神の業やことばによって神の思いを知る、いわゆる見ることができます。
ですから、何億年にも及ぶ神との交友をとおして、それらの神の霊の子たちは、神の真実性やご自分の子たちに対する愛ある目的を知ることができました。
それで、神の真実性を疑って自らサタンとなった、神の子は自分の信仰の欠如の言訳ができません。
神の思いは、神が告げたこと、つまり神のことばによって分かります。
私たちは、それが全て真実であり、愛あるものであることが分かります。
神に偽りはありません。
ですから、私たちは神の約束(ことば)を信じます。
これは、天と地における全ての神の子たちが培うことを期待されている信仰です。
アブラハムはその種の信仰を表しました。
彼は、息子イサクに関する神の約束を信じました。
ローマ 4:18-22
18 達しがたい希望ではありましたが,それでも希望をよりどころとして彼は信仰を抱きました。それは,「あなたの胤もそのようであろう」と言われたところにしたがって,彼が多くの国の民の父となるためでした。 19 そして彼は,信仰においては弱くなりませんでしたが,およそ百歳であったので,自分の体がすでに死んだも同然であること,またサラの胎が死んだ状態にあることを思い見ました。 20 しかし,神の約束のゆえに,信仰を欠いてたじろいだりすることなく,むしろ信仰によって強力になり,神に栄光を帰し, 21 また,[神]はご自分の約束した事を果たすこともできるのだと十分に確信していました。 22 ゆえに,「彼に対してそれは義とみなされた」のです。
ヘブライ 11:17-19
17 信仰によって,アブラハムは,試された時,イサクをささげたも同然でした。約束を喜びのもとに受けた人が,[自分の]独り[子]をささげようとしたのです。 18 しかも,「『あなたの胤』と呼ばれるものはイサクを通してであろう」と言われていたのです。 19 しかし彼は,神は死人の中からでもこれをよみがえらせることができると考えました。そしてまた,ひとつの例えとして,確かに彼をそこから受けました。
アブラハムは、神の約束を拠所に神の真実性(約束を守る力や意思)に信仰を働かせました。
わたしたちもまた、アブラハムの胤としてその種の信仰を培うことが期待されています。
ですから、キリストを受け入れた信者にとって、神の約束、あるいはことばは極めて特別な意味があります。
それによって、つまり神のことばの力によって私たちは推論し、行動します。
テサロニケ第一 2:13
13 まさにこのゆえにも,わたしたちは絶えず神に感謝しています。わたしたちから聞いて神の言葉を受けた時,あなた方はそれを,人間の言葉としてではなく,事実どおり神の言葉として受け入れたからです。それはまたあなた方信じる者の中で働いています。
ローマ 1:16
16 わたしは良いたよりを恥じてはいないからです。実際それは,信仰を持つすべての人にとって,すなわちユダヤ人を初めギリシャ人にとっても,救いのための神の力なのです。
コリント第一 1:22-24
22 ユダヤ人はしるしを求め,ギリシャ人は知恵を求めます。 23 しかしわたしたちは杭につけられたキリストを宣べ伝えるのです。これは,ユダヤ人にとってはつまずきのもとであり,諸国民にとっては愚かなことです。 24 しかし,召された者にとっては,ユダヤ人にもギリシャ人にも,神の力また神の知恵なるキリストなのです。
ですから、私たちの信仰は、しるしやこの世の知恵に基づくものではありません。
私たちの信仰は、愛ある神によって聖書に記されたキリストに関する話に基づきます。
そして、私たちのキリストへの信仰は決して失望にいたりません。
ペテロ第一 2:6
6 というのは,聖書にこうあるからです。「見よ,わたしはシオンにひとつの石を据える。選ばれた[石],土台の隅石,貴重な[石]である。これに信仰を働かせる者は決して失望に至ることがない」。
もし、あなたの信仰がキリストではなく、ものみの塔協会のような宗教組織に対するものなら、イエスの次のことばを聞くでしょう。
マタイ 7:22-23
23 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。 23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。
クリスチャンの信仰は、キリスト(約束の胤)に関する話によります。
その約束は聖書に記録されています。
また、それは良いたよりとして全世界で述べ伝えられています。
世界中で、イエスキリストを知らない人はいません。
みんな、意味も分からずにクリスマスを祝います。
あらゆる方法で、キリストの音信が伝えられています。
キリストの話に触れた人の中には、聖書を購入して読む人もいるでしょう。
それが、神への信仰の第一歩になる人もいるでしょう。
このようにクリスチャンの信仰は神のことば聖書、特にキリストに関する良いたよりに基づきます。
現在は、西暦1世紀のクリスチャン会衆が誕生したときのような奇跡の賜物によってではなく、霊感の書物からの霊の働きにより約束の胤の王国相続者の一員になる機会が差し伸べられています。
それは、特別な感情的な経験によるというよりは、目に見えない実体(神の約束)に対する論証によります。
特別なしるしは不要です。
霊によって再び生まれる人たちは、特別な人ではありません。それは、特別な経験などでもありません。
神のことばに対する信仰の結果です。
なにか特別な経験を期待している人は、自分の信仰の質を吟味すると良いでしょう。
トマスはイエスの復活を信じることができませんでした。
彼は復活したイエスを見ない限り信じないといいました。
イエスは、トマスの信仰の質に合わせて彼の前に現れ信じるように助けました。
その時、イエスは、とても大切な点を語られました。
ヨハネ 20:29
29 イエスは彼に言われた,「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見なくても信じる者は幸いです」。
信仰は、見えない実体についての明白な論証です。
特別な経験や感情をいつも期待する必要はありません。
ペテロ第一 1:8-9
8 あなた方は彼(イエス)を見たことはありませんが,彼を愛しています。現在彼を見ていませんが,彼に信仰を働かせ,言い表わすことのできない栄えある喜びをもって大いに歓んでいます。 9 それは,あなた方の信仰の果て,すなわち魂の救いを得るからです。
まとめ
信仰は見えない実体についての明白な論証です。クリスチャンの信仰は聖書に基づきます。
約束の胤、キリストに関する良いたよりに信仰をもち、胤の王国の相続人となります。
そこに、人間の作った宗教組織が入り込む余地はありません。
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