預言に引かれる人たち
いつの時代にも、クリスチャンの生き方よりも「終わりの日」の預言に興奮し預言の担い手として人々を巻き込む者がいました。その種の人々は、聖書預言の成就のときが来たので自分たちのグループあるいは組織が出現したと思い込みました。そのようにして、いつの時代にも偽預言に振りまわされてクリスチャンの生き方を見失う人々がいました。19世紀から今日までは、ウィリアム・ミラーなどの「キリストの再臨主義者」、「1000年期信奉者」たちに踊らされてできたモルモン、セブンスデー・アドベンチスト、ものみの塔聖書冊子協会などの宗教団体が全地の多くの人々を聖書の預言により獲得しています。
預言となると、隠された知識、神秘主義、特別な啓示など人の興味をそそる要素がありますので、それにより詐欺を働く要素を持っています。それで聖書は偽預言者に警戒するように警告を与えています。
マタイ 24:11, 23-26
11 そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。
23 「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。24 偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。25 ご覧なさい,わたしはあなた方にあらかじめ警告しました。26 それゆえ,人々が,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。『見よ,奥の間にいる』[と言っても],それを信じてはなりません。
テサロニケ第二 2:1-2
1 しかし,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの到来,またわたしたちがそのもとに集められることに関して,あなた方にお願いします。2 主の日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって,またわたしたちから出たかのような手紙によって,すぐに動揺して理性を失ったり,興奮したりすることのないようにしてください。
知るべき「しるし」は既に十分であり、将来何が生じるかについてクリスチャンは無知ではありません。
大切なことはキリストの弟子としての生き方であり、この世の有様に興奮することではありません。
もちろん、これは世の有様を暴露する必要はないといっているのではありません。
クリスチャンは、ものみの塔が教えるように、迫り来る「大艱難」の警報係ではないということです。
義を愛する全ての人々は、クリスチャンの努力で救われるのではなく、自らもそうであったように、神の憐れみとキリストの贖いにより救われます。
それで、自らが確信している将来の救いの希望によって喜んでください。
その希望の実現を確実にするためにキリストの弟子として生き抜いてください。
テサロニケ第一 5:1-5
1 さて,兄弟たち,時と時期については,あなた方は何も書き送ってもらう必要がありません。2 主の日がまさに夜の盗人のように来ることを,あなた方自身がよく知っているか らです。3 人々が,「平和だ,安全だ」と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの劇痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません。4 しかし,兄弟たち,あなた方は闇にいるのではありませんから,盗人たちに対するように,その日が不意にあなた方を襲うことはありません。5 あなた方はみな光の子であり,昼の子なのです。わたしたちは夜にも闇にも属していません。
ペテロ第二 3:11-14
11 これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなた方は,聖なる行状と敬虔な専心のうちに,12 主の日の到来を待ち,[それを]しっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その[日]に天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです。13 しかし,[神]の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。
14 それゆえに,愛する者たちよ,あなた方はこれらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい。
フィリピ 2:12
12 . . . 恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい。
ものみの塔が終わりの日の預言を強調するのは、皆んなをだます偽預言者だからですよ。
その音信は、使徒たちが宣べ伝えた「キリストによる救いの良いたより」ではありません。
キリストの救いの良いたより
悲しみや苦しみ、悪がなくなることを願う者のひとりとして、おおくのJWたちが持つ自分の生涯のうちに悪の終わりを見たい気持ちは良く分かります。早く主の日(悪の終わり)が到来して欲しいですね。
それまでは、事態は良くはならないでしょう。
神を無視する人間の支配の腐った実が悪臭を放ち、多くの人々を苦しめ続けるでしょう。
社会を良くするための誠実な人々の努力を見下したり無視しているのではありませんが、その努力も全ての人々を益することはできないでしょう。
真の救いは神によりもたらされます。
聖書から、神の救いの手立てを知ったクリスチャンたちは、不正な世の中で、神からもたらされる将来の救いについて喜ぶことができます。
その希望により貧しい人たちや嘆き悲しむ人たちを慰め助けることができるなら、私たちの喜びは増し加わります。
それが、「救いの良いたより」、「キリストの良いたより」、「王国の良いたより」です。
それは、差し迫った人類の世の終わりについて警告し人々を恐怖によって信仰に導くことではありません。
その種の改宗はクリスチャンのものではありません。
不正や悪の終わりは、やがて到来しますが、悪人を処刑することがクリスチャンに求められていないのと同じように、それを生き残る人々を集めることも求められていません。
悪を嘆き悲しむ人々の額に印をつけるのは人間ではありません。
邪悪な者たちを処刑するのが人間ではないのとおなじです。
クリスチャンは、「終わりの日」を宣べ伝えるのではなく、「キリストの良いたより」を宣べ伝えます。
ものみの塔に騙されたJWたちは、その違いが分かっていません。
彼らは、偽預言者に騙されたために聖書を預言の視点で説明したがります。
それは、「王国の良いたより」でも、「キリストの良いたより」でもありません。
初期クリスチャンたちは、将来の裁きについて宣べ伝えましたが、エルサレムやサタンの世の「終わりの日」の預言を宣べ伝えていたのではありません。
エルサレムの滅びについて言えば、その終わりの預言は、滅びに定められたエルサレムに住むユダヤ人と年3回の祭りの際にその都市に集まる各地に住むユダヤ人およびユダヤ教の改宗者たちにしか意味を持ちませんでした。
その都市から遠く離れた地に住むギリシャ人やローマ人にとってエルサレムの滅びを生き残る方法は意味を持ちませんでした。
また、将来のサタンの世の終わりについても、救いはクリスチャンとしての生き方によるものであり、救われるための物理的な備えに依存するものではありません。
例えば、ハルマゲドンを生き残るために地下シェルターを造ったところで何の意味もなさないでしょう。また、人間制のいかなる組織にも何の保護も期待できないでしょう。ものみの塔協会に入信してエホバの証人になったら、あるいはカトリックになったら救われる、あるいは大艱難を生き残れるというものではありません。
神の救いの手段を理解して生涯をクリスチャンとして生きることが重要であり、聖書預言の「終わりの日」を生き残ることを目指して生きることではありません。
西暦1世紀からクリスチャンたちは、神の救いの手段を宣べ伝えたのであって「終わりの日」の預言を宣べ伝え解説したのではありません。
王国の良いたよりは、神が任命したアダムの家族の救いの主要な代理者に関するものであり、なぜ救出が必要になったのか、神の救いの主要な代理者は誰か、どのような救いが備えられているかについての知らせです。
その救いの良いたよりによりクリスチャンになる人々は、西暦1世紀から今日に至るまで、将来の「主の日」の裁きを待ち望みながら、自らのクリスチャンとしての生き方により神の救いの生きた証拠として生涯を終えています。
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