Thursday, July 9, 2015

天への召し

天への召しについてもう少し説明します。

まず、天への希望はキリストの犠牲により可能になりました。
それはキリストを受け入れた人々に無償の賜物として神がくださった希望です。

その希望をいただく人が何か特別の人だからでも、特別のことを行ったからでもありません。
キリストを受け入れた罪人に対する神の側の過分の親切、憐れみの表明です。

ヨハネ 1:12-13
12 しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。13 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。

エフェソス 2:4-10
4 しかし,神は憐れみに富んでおられ,わたしたちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに,5 わたしたちが罪過にあって死んでいたその時にさえ,キリストと共に生かし―あなた方は過分のご親切によって救われているのです― 6 また,キリスト・イエスとの結びつきにおいてわたしたちを共によみがえらせ,天の場所に共に座らせてくださったのです。7 それは,キリスト・イエスと結ばれたわたしたちに対する慈しみのうちにあるその過分のご親切の卓抜した富が,来たらんとする事物の諸体制において明らかに示されるためです。
8 まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,これはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。9 そうです,それは業によるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 わたしたちは[神]の業の所産であって,キリスト・イエスと結ばれて良い業のために創造されたのです。それは,わたしたちがそのうちを歩むようにと神が前もって準備してくださったものです。

わたしたち罪人が天に行くのは、私たちの義の証明というよりは、むしろ神の側の深い愛と過分のご親切の証明です。わたしたちの側に誇れるものは何もありません。



それは、ものみの塔が教えているように何かの宗教的な活動を熱心に行うことによって神から頂くようなものではありません。

ものみの塔は、神聖な奉仕(崇拝行為)を特定な宗教活動に限定して、それにどれだけ熱心かによって人の霊性を判断しますが、神は別の見方をなさっています。

集会の参加、野外奉仕の時間、研究生の数、大会の奉仕、ベテル奉仕などの特定の宗教活動に携わることが神聖な奉仕(sacred service)であり、それ以外はそうではないと聖書は教えていますか。(ものみの塔協会はそれに限って時間の報告を強要していますが、なにかズレていませんか。)



キリストの教えは、クリスチャンの生き方そのものが崇拝であることを教えています。

最も大切な教えはなんでしたか。
神と隣人を愛することでした。

どういうことですか。
親切なサマリア人のようになることではありませんか。

神への神聖な奉仕(崇拝)は、誰かが決めた特定の宗教活動にあずかることではなく、神を喜ばす人の生き方そのものです。

マタイ 22:36-40
36 「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。37 [イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。38 これが最大で第一のおきてです。39 第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。40 律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。

ローマ 13:8-10
8 あなた方は,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません。 仲間の人間を愛する者は律法を全うしているのです。9 「あなたは姦淫を犯してはならない,殺人をしてはならない,盗んではならない,貪ってはならない」,そしてほかにどんなおきてがあるにしても,その[法 典]は,この言葉,すなわち,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」に要約されるからです。10 愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから,愛は律法を全うするものなのです。

神を崇拝する人たちは、神を見倣い神のように愛ある者となるように励まされています。
その人の生き方全体(語ること、振る舞い、態度など)がその人の崇拝(神への神聖な奉仕)となります。

エフェソス 5:1-2
1 それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。2 そして,キリストがあなた方を愛し,芳しい香りとなる神への捧げ物また犠牲としてご自身をあなた方のために引き渡されたように,あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい。


神のような愛ある人なれるのは宗教活動に熱心な人でしょうか。

ルカ 10:29-37
29 しかしその人は,自分が義にかなっていることを示そうとしてイエスに言った,「わたしの隣人とはいったいだれでしょうか」。30 イエスは答えて言われた,「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中で,強盗たちに襲われました。彼らはその衣をはいだうえに殴打を加え,その人を 半殺しにして去って行きました。31 さて,たまたま,ある祭司がその道路を下って行くところでしたが,その人を見ると,反対側を通って行ってしまいました。32 同じように,ひとりのレビ人もまた,そこまで来て彼を見ると,反対側を通って行ってしまいました。33 ところが,その道路を旅行していたあるサマリア人がやって来ましたが,彼を見て哀れに思いました。34 それで,その人に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやりました。それから彼を自分の畜獣に乗せ,宿屋に連れて行って世話をしたのです。35 そして次の日,デナリ二つを取り出し,それを宿屋の主人に渡して,こう言いました。『この人の世話をしてください。そして,何でもこれ以外にかかるものが あれば,わたしがここに戻って来たときに返しますから』。36 これら三人のうちだれが,強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか」。37 彼は言った,「その人に対して憐れみ深く行動した者です」。するとイエスは言われた,「行って,あなたも同じようにしてゆきなさい」。(崇拝は生き方であり、特定の宗教活動を熱心に行うことではありません。)

祭司、レビ人はどんな人たちですか。
いわゆる特定の宗教儀式を行う神を代表する者たちですね。

他方、サマリア人はどんな人ですか。
神について正確な知識に欠けている人ですね。

では、神に受け入れられたのは、どちらでしたか。
心に動かされて隣人愛を実践した親切なサマリア人の方でした。

この話から何を学べますか。
特定の宗教活動を行っていることが、人を本当に愛ある人にするのではないこと。
特定の宗教活動が神を喜ばす神聖な奉仕(sacred service)ではなく、神の霊に調和する生き方が神に受け入れられる神聖な奉仕(崇拝)であるということです。



エホバの証人のような宗教活動に熱心な者たちの陥る誤り

マルコ 7:9-13
9 [イエス]はさらに続けてこう言われた。「あなた方は自分たちの伝統を保とうとして,巧妙にも神のおきてを押しのけています。10 たとえば,モーセは,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言いました。11 ところがあなた方は,『もし人が自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみなコルバン(つまり,神に献納された供え物)なのです」と言うならば』と言います― 12 あなた方はもはやその人に,自分の父や母のために何一つさせないのです。13 こうしてあなた方は,自分たちが伝えた伝統によって神の言葉を無にしています。そして多くのこれと同様の事をあなた方は行なっています」。(コルバンのような特定の宗教活動や要求を満たすこと、親を敬うこと、どちらが神にとって大切ですか。)

エホバの証人の問題点は、ここで指摘されているように、
ものみの塔が作った崇拝の方式により、神のことばを無にしている点です。
野外奉仕、ベテル奉仕、王国会館建設奉仕、会衆での割り当てなどの特定の宗教活動をコルバンのような神権的な活動あるいは神聖な奉仕(sacred service)と称し本当に神が望まれることを犠牲にします。

彼らの神聖な奉仕は、神の目に何の意味も価値もありません。



テモテ第一 5:4
4 しかし,やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです。(敬虔な専心はどこで実践できますか。特定の宗教活動でですか、それとも毎日の生活の中でですか。)

ヤコブ 1:26-27
26 自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても,自分の舌にくつわをかけず,自らの心を欺いている人がいれば,その人の崇拝の方式は無益です。27 わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです。(神が喜ばれる崇拝は、生き方ですね。)

ヘブライ 13:15-16
15 この方を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明する唇の実です。16 さらに,善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです。(神への崇拝は伝道や集会だけではありません。)



それで、神に喜ばれるクリスチャンの生き方そのものが敬虔な専心であり崇拝行為(神聖な奉仕)となります。

キリストを受け入れて神を崇拝するクリスチャンたちに、提供されている希望は、キリストのように生き、また同じように死に、同じように天に復活することです。

ヨハネ 13:15
15 わたしはあなた方のために模範を示しました。あなた方も,わたしがあなた方にしたと同じようにするためです。

エフェソス 1:12-13
12 それは,キリストに望みを置く点で最初の者となったわたしたちが,その栄光の賛美に仕えるためでした。13 しかしあなた方も,真理の言葉,すなわちあなた方の救いについての良いたよりを聞いた後,この方に望みを置きました。そして信じた後,やはりこの方により,約束の聖霊をもって証印を押されたのです

コロサイ 3:1-4
1 しかしあなた方は,もしキリストと共によみがえらされたのであれば,上にあるものを求めてゆきなさい。 そこにおいてキリストは,神の右に座しておられるのです。2 地上にある事柄ではなく,上にある事柄に自分の思いを留めなさい。3 あなた方は死んだのであって,あなた方の命は,神と結ばれてキリストと共に隠されているからです。4 わたしたちの命であるキリストが現わされるとき,その時にあなた方もまた,彼と共に栄光のうちに現わされることになるのです。


聖書は、キリストの贖い、救いの希望について理解している人に上にあることを求めるように励ましています。そしてその励ましを退ける正当な理由がありますか。キリストに信仰を働かせている人は、神の召しに感謝して答応じるのではありませんか。

キリストの弟子たちの思いは、はじめは地上のことに向けられていましたが、やがて天での命の約束を確信するように助けられました。同じことがわたしたちにも当てはまります。

神の救いの備えの全体が理解でき、神の目的のうちに天に行く理由が理解できれば感謝と確信が増しクリスチャンとして生き始め、与えられた希望によって喜ぶことができます。

ローマ 12:9-13
9 [あなた方の]愛を偽善のないものにしなさい。邪悪なことは憎悪し,善良なことにはしっかりと付きなさい。10 兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい。互いを敬う点で率先しなさい。11 自分の務めを怠ってはなりません。霊に燃えなさい。エホバに奴隷として仕えなさい。12 希望によって歓びなさい。患難のもとで耐え忍びなさい。たゆまず祈りなさい。13 聖なる者たちと,その必要に応じて分け合いなさい。人をもてなすことに努めなさい。

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