聖書はすべての人への神からの手紙です。
聖書の理解、解釈について私の見方を説明したいと思います。神は全人類にご自分の意思を伝えるために聖書を備えてくださいました。
それで、普通の人がその内容を理解することを期待されていると思います。
加えて、心を見られる神ご自身が、ふさわしい人々をキリストに導くとも言われています。
テモテ第二 3:16-17
16 聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。17 それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。
ヨハネ 6:44
44 わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。
また、キリストに関する救いの音信を先に受け入れた人は、それを他の人々と分かち合うことが期待されています。そのようにして、全人類(アダムの子孫の全て)が、救いの音信を聞く機会を得ることが神のご意思だからです。
神は、アダムの全ての子孫を受け継いだ罪から救う意思(目的)と手立て(キリスト)をお持ちです。
ヨハネ 3:16
16 「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。
ヨハネ 6:51
51 わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます。そして,本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。
テモテ第一 2:4
4 [神]のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです。
ペテロ第二 3:9
9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。
キリスト教の音信は和解の音信です。
聖書は、悔改めを強調しています。それは神との和解にとって必要です。それは単に使徒パウロの思いから出た要求ではありません。
キリスト教の音信は、和解の音信といえます。
その和解は、神の方の大きな犠牲を伴って備えられました。
それで、それはまた神の側の大きな愛の表明でもあります。
和解の音信を受け入れた人は、神の愛に見習うように励まされています。
クリスチャンが愛を強調するのは、神の愛に同種の愛を持ってこたえ応じるためです。
ヨハネ第一 4:19
19 わたしたちは,神がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです。
コリント第二 5:17-20
17 したがって,キリストと結ばれている人がいれば,その人は新しい創造物です。古い事物は過ぎ去りました。見よ,新しい事物が存在しているのです。18 しかし,すべてのものは神から出ており,[神]はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させ,また,和解の奉仕の務めをわたしたちに与えてくださいました。19すなわち,神はキリストによって世をご自分と和解させて,その罪過を彼らに帰さず,わたしたちに和解の言葉をゆだねてくださったのです。
20 それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。「神と和解してください」。
神との和解は、悔改めと、キリストへの信仰によりなされます。
それは、清い良心をもたらし、神が全人類の隠れたことを裁く際に、救いをもたらします。
ローマ 2:15-16
15 彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が彼らと共に証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです。16 わたしが宣明する良いたよりにしたがえば,神がキリスト・イエスを通して人類の隠れた事柄を裁く日に,このことはなされます。
クリスチャンに求められているバプテスマは、悔改めの象徴であり、救いに必要な清い良心を求める意思表示です。
ペテロ第一 3:21
21 これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです。
それで、使徒パウロのアレオパゴスにおいてなされた証言は、私たちが伝えるべきキリスト教の音信そのものと言えます。
マタイ 28:18-20
18 すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,わたしの名において彼らにバプテスマを施し,20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。
使途 1:8, 2:32, 3:15
8 しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。
2:32 このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちは皆その事の証人です。
3:15 一方では,命の主要な代理者を殺しました。しかし神はこの方を死人の中からよみがえらせたのであり,わたしたちはその事の証人です。
使途 17:22-31
22 さて,パウロはアレオパゴスの真ん中に立って,こう言った。
「アテネの皆さん,わたしは,あなた方がすべての事において,他の人たち以上に神々への恐れの念を厚く抱いておられる様子を見ました。23 例えば,歩きながら,あなた方の崇敬の対象となっているものを注意深く見ているうちに,わたしは,『知られていない神に』と刻み込まれた祭壇も見つけました。それで,あなた方が知らないで敬虔な専心を示しているもの,それをわたしはあなた方に広めているのです。24 世界とその中のすべてのものを造られた神,この方は実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,25 また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。ご自身がすべて[の人]に命と息とすべての物を与えておられるからです。26 そして,一人の[人]からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と[人々]の居住のための一定の限界とをお定めになりました。27 人々が神を求めるためであり,それは,彼らが[神]を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ[神]は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。28 わたしたちは[神]によって命を持ち,動き,存在しているからであり,あなた方の詩人のある者たちも,『そはわれらはまたその子孫なり』と言っているとおりです。
29 「したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののように思うべきではありません。30 確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。31 なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。
■ 天地創造の神、キリスト、悔改め、裁きは、キリスト教の音信です。
信仰の主人ではなく自分の信仰
聖書を何回も読んで、人々は聖書の音信についてそれぞれ異なった見方を持つと思います。それで各自は、自らの推論、見方、信仰において神から裁かれることになります。この点で他人を裁く権威はどの人間にも与えられていませんん。ある人が三位一体を信じるなら、それはその人と神との関係であり、それを信じない人を裁く立場を与えるものではありません。その逆も同じであり、各自は自ら確信した事に関して神から裁かれることになります。ローマ 14:22
22 あなたの抱く信仰は,神のみ前で自分自身にしたがって抱きなさい。自らよしとしている事柄について自分を裁かないでよい人は幸いです。
ガラテア 6:7
7 惑わされてはなりません。神は侮られるような方ではありません。何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。
マタイ 11:19
19 . . . 知恵はその働きによって義にかなっていることが示されるのです。
テサロニケ第一 5:21
21 すべてのことを確かめなさい。りっぱな事柄をしっかり守りなさい。
他の人の聖句の解釈や説明は参考になりますが、それが自らの思いや霊と共振しない場合があることを認める必要があります。
それで、他の人の信仰によって動揺する理由はありません。無神論者であっても、それがその方の信仰であると見なせます。
また、誰かの聖句に基づく説明や解説により、あることがより明確になるとか、納得できるなら、それによって思いを調整すれば良いと思います。そのようにして聖書の真理の理解を深めることは、その経路となった人から導かれているのではありません。
それは、聖書の真理そのものと、その正確な理解を助ける神の霊の働きによる結果といえます。そのように他の人の信仰により励みを受けたり、理解を広げたり深めたりし、神との個人的な関係を発展させていけます。
見えない現象の説明や実際的な適用は、人により違いがあるのが現実ですね。わたしは、その人そのものが各人の主人だと思っています。また、その独自性は神の性質から来ていると見なしています。
この点で、真理の経路となる人についての健全な見方が大切です。
聖書は、そのような人を信仰における兄弟と見なすよう教えています。
しかし、その人は自分の信仰の主人ではありません。
マタイ 23:8-10
8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。9 また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。
コリント第二 1:24
24 わたしたちがあなた方の信仰に対する主人であるというのではありません。わたしたちはあなた方の喜びのための同労者です。あなた方が立っているのは[自分の]信仰によるのです。
コリント第一 3:7
7 ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです。
フィリピ 1:18
18 ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。そのことをわたしは歓んでいます。そうです,これからも歓んでゆくのです。
■ キリストの音信の経路が重要ではありません。経路となる人は、過ちを犯す不完全な人間に過ぎません。
聖書そのものに注目する必要があります。
また、理解のために神の霊に頼ることが大切です。
そして、自ら確信した事を喜んで他の人と分かち合ってください。
その際、異なる見方を持つ人を打ち負かす(無理やり納得させる)必要はありません。
あなたの信仰の表明により益を受ける人が必ずいるでしょう。
ヨハネ第一 5:20
20 しかしわたしたちは,神のみ子が来て,真実な方について知ることができるよう,わたしたちに知的な能力を与えてくださったことを知っています。そしてわたしたちは,み子イエス・キリストによって,真実な方と結ばれています。
ヨハネ 14:26, 16:13
26 しかし,父がわたしの名によって遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなた方にすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事柄を思い起こさせるでしょう。
16:13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。
ペテロ第一 3:15
15 むしろ,あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい。
以上が聖書の真理、またその理解に関わるわたしの見方です。
それで、わたしが展開する聖句に基づく推論はわたしの信仰の表明であり、わたしと神との個人的な関係の表れです。
わたしは、それにより他の方が益を受けることを望みますが、それを他の人に押し付けるつもりも力もありません。
人は、おのおの自分の荷(思い、見方、責任、背景)を持っています。
ガラテア 6:5
5 人はおのおの自分の荷を負うのです。
➡ 先日、ホームセンターで元会衆の兄弟に偶然会いました。
献身という考え方について
バプテスマに関して神への献身を示唆する聖句はありません。バプテスマは、キリストを受け入れた人の悔改めの象徴です。
キリストは罪人を招くために来たと述べられています。
それで救いのための第一歩は献身ではなく、悔改めです。
バプテスマを受ける人はキリストの弟子となります。
パウロは、それを義の奴隷と表現しています。
それはまた、キリストの花嫁、キリストの体、神の神殿とも表現されています。
キリストの弟子たちが神聖な奉仕に励むのは救いを獲得するためではなく、救われた事への感謝の表明のためです。
提供されている救いを確実にするために精力的に努力するように励まされています。
それは、彼らの感謝と愛の純粋さの証拠となります。
しかし、救いは自分の献身を立証する業によるものではありません。
不完全な人間にとってそれは不可能なことです。
クリスチャンの救いは神の恵み(無償の賜物)によります。神への献身ではありません。
「も塔」は神への献身を強調してクリスチャンのバプテスマの意味を変質させています。
その結果、献身の誓いを果たす業によって義を追い求める生き方をJWに勧めています。
しかしそれはパリサイ人の歩みであり神の目に何の価値もありません。
ルカ 18:9-14
9 しかし[イエス]は,自分は義にかなっているのだと自負し,ほかの人たちを取るに足りない者と考えるある人々にも次の例えを話された。10 「二人の人が祈りをするため神殿に上りました。一人はパリサイ人,他の一人は収税人でした。11 パリサイ人は立って,これらのことを自分の中で祈りはじめました。『神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。12 わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています』。13 一方,収税人は離れたところに立って,目を天のほうに上げようともせず,胸をたたきながら,『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言いました。14 あなた方に言いますが,この人は,先の人より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」。
パリサイ人は、自らの神への責任を細かく守り、いわば献身的な生き方の確信を表明しています。
興味深い点は、書士やパリサイ人の言い伝えの伝統に、コルバン(神に捧げられたもの)があります。
そして、それらの伝統により神の言葉を無効にしているとして、イエスは宗教指導者を糾弾しました。
マルコ 7:9-12
9 [イエス]はさらに続けてこう言われた。「あなた方は自分たちの伝統を保とうとして,巧妙にも神のおきてを押しのけています。10 たとえば,モーセは,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言いました。11 ところがあなた方は,『もし人が自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみなコルバン(つまり,神に献納された供え物)なのです」と言うならば』と言います—12 あなた方はもはやその人に,自分の父や母のために何一つさせないのです。13 こうしてあなた方は,自分たちが伝えた伝統によって神の言葉を無にしています。そして多くのこれと同様の事をあなた方は行なっています」。
エホバの証人の奉仕優先マインド、神への献身を果たすという見方は、パリサイ人の見方と似ています。それで、神への献身の名の下に、自分の親族への思いやりを欠いた決定や行動を正当化する傾向が見られます。
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