ノアの箱舟について目撃証人による証拠を提供します。➡ 世界的な洪水の状況証拠(地質学、化石)の記事もお読みください。
ノアの箱舟の目撃証人たちの証言
元記事http://www.noahsarksearch.com/elfred.htm
エルフレッド・リー (Elfred Lee) は1960年代の終わりごろからノアの箱舟の調査に関わってきました。彼は独自の調査隊とは別にフェルナンド・ナバラ (Fernand Navarra) と共にアララト山へ向かいました。そして米国に木片をもって帰りました。エルフレッドはその探検の写真やビデオを撮り、それはその調査組織に所蔵されています。彼はまた箱舟の目撃証人と言われるジョージ・ハゴーピアン (George Hagopian) とエド・ディヴィス (Ed Davis) にインタビューしています。
ジョージ・ハゴーピアン (George Hagopian)
エルフレッドは主に自称目撃証人ジョージ・ハゴーピアンについて調査しています。エルフレッドはハゴーピアンが亡くなる前多くの時間を彼と共に過ごしました。ハゴーピアンの証言は今日に至るまで最も興味深く真実味のあるものだと思います。 以下はハゴーピアンの証言によりエルフレッド・リーが描いたノアの箱舟の2つの絵です。
エド・ディヴィス (Ed Davis)
エルフレッドはまた別のノアの箱舟の目撃証人エド・ディヴィスとも多くの時間を過ごしています。ハゴーピアンは1905年に10歳の時完全な形の箱舟を見たと証言していますが、ディヴィスは1943年軍隊にいた時2つの切り離された箱舟の部分を目撃したと述べています。
アララト山上の箱舟のビデオショット
Remnants Of Noah's Ark
香港とトルコのチーム箱舟発見 内部撮影ビデオクリップ
ノアの箱舟の目撃証人の記事へリンク(英語)
アルメニア人ジョージ・ハゴーピアンは彼が子供のころ1900年と1905年の2回ノアの箱舟を見たと述べています。ハゴーピアンと彼の叔父は8日かけてバン市 (city of Van) から高地にある牧草地とアララト山の氷河につきました。アララト山に行った主な理由は、4年に及ぶ干ばつのおかげでバン湖 (Lake Van) 地域の羊が死にかけていたからです。長引く無降雨(無降雪)のせいで箱舟は完全に露出していました。彼らは箱舟に至り、叔父の助けでハゴーピアンは人工の小さな階段を箱舟の屋根の上まで登りました。
Armais Arutunoff 1893 (see his history リンク)
彼は、1916年の探検の際撮られたあるノアの箱舟の最後の白黒写真の所有者です。 上のスケッチは彼の指示により描かれたものです。
原本の写真の行方は不明です。彼はアルメニア(ロシア)生まれです。
エド・デイヴィス Ed Davis
エド・デイヴィスは1943年当時ハマダン (Hamadan) の米陸軍技術部隊の若い軍曹でした。彼はアッバス (Abas) という名のあるイスラム教徒のグループと親しくなりました。彼はこの家族にある好意的な扱いをしました。それでアッバス家の人々はエドに恩義を感じました。それで彼らはディヴィスをアララト山の聖なる箱舟に案内することにしました。エルフレッド・リー (Elfred Lee) はハゴーピアンをインタビューしてから15年後にエド・デイヴィスを数日にわたりインタビューしています。エド・デイヴィスの説明もまた信頼できるもので、箱舟にいたる道はハゴーピアンによる描写と完全に一致していました。両方ともアバス-アバス村 (Abas-Abas village)、ヤコブの井戸 (Jacob's Well)、などつまり同じ場所を通り同じ方向から到着しています。
エド・デイヴィスは嘘発見装置によるテストも受けました。そしてその結果は彼の証言は偽りのない正確のものでした。
デイヴィスは「世の終わりの岩」(Doomsday Rock) と「らくだの背」(Camel's Back) について言及しています。他の探検家よりアララト山について多分良く知っているアメット・アスラン (Ahmet Arslan) は「世の終わりの岩」は「らくだの背」道 (trail) の終わりにあると述べています。そしてそれはアホラ・ゴージ (Ahora Gorge) の西壁に面するハゴーピアンが用いた道でもあります。デイヴィスはまた「世の終わりの岩」を巡った後渓谷の中の箱舟の破片を見るのに急勾配を数キロ登ったと述べています。
エドの写真リンク
ウィル氏のスケッチ
ビンス・ウィル Vince Will
アララト探検家たち (The Explorers of Ararat, B.J. Corbin) から
ビンス・ウィル 米空軍軍曹、1943-1945年星条旗紙
ビンス・ウィルが箱舟の開口部から中を覗き込む写真が星条旗紙の第一面に載りました。これが彼が見たものです。箱舟の一部が、その下が岩礁だけの上に雪と氷から40-50フィート(12-15m)突き出していました。木材は周囲の岩よりも黒く、とてもよい状態でした。屋根には穴はなく、異なる高さから見ると右側に穴と船梁がありました。その穴を通して2つの甲板が見えました。
ハーブ・ニーのスケッチ
ハーブ・ニー Herb Knee
米空軍退役軍人
テネシー州マーフリーズボロー(Murfreesboro-Tennesse) の退役軍人で不動産業者であるハーブ・ニーは、ウィンチェスターで1950年代の白黒ニュース映画を見ました。その映画はアララト山上のノアの箱舟によじ登る老人と子供を映していました。ハーブは箱舟のほとんどは雪で覆われていたと述べています。その物体は長い長方形の形をしていました。それが雪で覆われていたためハーブはその長さを見積もれませんでしたが、幅が多分50フィート(15m) で高さが多分40フィート (12m) と概算しています。その物体の色は暗い灰色または黒味がかっていました。物体の近くには岩礁がありました。ハーブはその物体は100% 人工物で、100% 船で、100% ノアの箱舟であるとしています。
グレガー・シュウィンハンマー Gregor Schwinghammer
グレガー・シュウィンハンマー1959年にF100でアララト山付近を飛行した元米空軍キャプテンで戦闘機パイロットは、山の側面から突き出している大きな長方形の艀(はしけ)のような形に見える物体を目撃しています。(p.421 The Explorers of Ararat by Corbin) 彼は私や同僚にパロット氷河の地域 (Parrot glacier zone) は、彼が目撃したその物体が山の側面にあったことを思い起こさせると述べていました。それで、それは氷の台地の上ではなく、およそ3,900m の頂上から約1,300m下の蹄鉄型の窪地(または渓谷)の中にありました。
1985年、ノアの箱舟についてエルフレッド・リー (Elfred Lee) との会話の際にヘイブンス司令官は、「私たちはそれを見ました。私はパイロットによって撮られた2つのスライドを見ました。彼らは同じような構造物をアララト山の北側で目撃しています。」
と宣言しています。
エド・ベリング Ed Belhing
1973年に23才の米海軍兵エド・ベリングはトルコとイランの国境付近で軍務を展開していました。彼はムスタファ (Mustafa) という名のクルド人の兵士と友達になりました。5ヶ月の交友の後ムスタファはベリングにノアの箱舟の場所を知っている自分の叔父について話しました。ムスタファは滅多に同胞のクルド人を箱舟に案内しませんが彼はベリングを尊敬していました。ベリングによると村の年長者たちは箱舟の場所を知っていて、若者たちは彼らの許可なしにそこへ行くことはありません。その長い登山でベリングは寒さや痛みに苦しみました。彼は体力を消耗し彼の友人の叔父が引き返すことを願いました。彼の友人のムスタファが指差して指摘した時ベリングは疲労し、懐疑的になり、多分意気消沈していました。その身振りでベリングを最後の力を振り絞りました。彼は渓谷の下を覗き込みました。そしてそれは僅か20m 位下にありました。彼はある種の巨大な黒い建造物をそこに見ました。それは平行六面体の形に壊れていました。船の竜骨のように丸ではなく方形でした。
ケビン・ハーリー Kevin Hurley
Article from Kevin Hurley
星条旗紙の読者によるノアの箱舟の記事
ハーリー氏のスケッチ
ケビン氏は次のように述べています。
1991年の湾岸戦争 (Gulf War) の間、私はある新聞の写真のコピーを見ました。新聞の上部が無いため記事のタイトルと発行日付は分かりません。写真は白黒で質の良くないものでした。それは渓谷の氷と雪から突き出た艀(はしけ)のように見えました。その物体の屋根の氷は輝く白色で、その物体の側面と崖は黒っぽいものでした。多分その幅を75フィートとするとその幅の2倍の100-150 フィート (30-45m) 位突き出ており、屋根の下に黒い点または窓のように見えるものがありました。屋根は暗い背景に対して真っ直ぐに立ち上がっており、それは人工物であると思いました。なぜなら自然界には直線はほとんど無いからです。箱舟の屋根の端や屋根にある窓を表すその線は全て直線でした。. . . 私は有名になることやお金ではなく、箱舟を見つけてそれを世の中に示すことを望んでいる人を探しているだけです。
sk の感想
米軍の星条旗紙を検索するとその種の記事を見出せるかも知れませんね。
またジャベル・アル・ローの場合と同じように地元の人たちは真実を知っているようですね。
本物のシナイ山は、紅海(スエズ湾の方ではなく、アカバ湾の方)に面するアラビア半島にある ジャベル・アル・ロー (Jebel al Lawz) です。
現地のベドウィン族は、その山を「モーセの山」と呼んでいます。
現地のベドウィン族は、その山を「モーセの山」と呼んでいます。
ノアの箱舟の新聞、メディア報道
漢字に見られるノアの洪水の記録
アララト山トルコの首都はアンカラといいます。
それは船の錨 (anchor) に由来します。
漢字の「船」 (ship or vessel) は「ボート」と「八つの口」から成っています。
漢字の「洪」(flood or deluge) は「共」と「水」から成っています。
漢字の「乱」は(confusion、混乱) は「舌」と「mystery、怪事」とから成っています。
漢字の「諾亞」(Nuoya ノア) は「是認された」と「第二」から成り「是認された2番目の者」を意味します。
聖書中、最初に神からの是認の表明が与えられたものはノアの曽祖父のエノクで、ノアは2番目に神の是認を得た者でした。
創世記 5:24, 6:8-9
24 こうしてエノクは[まことの]神と共に歩みつづけ,
6: 8しかし,ノアはエホバの目に恵みを得た。9これがノアの歴史である。ノアは義にかなった人であり,同時代の人々の中にあってとがのない者となった。ノアは[まことの]神と共に歩んだ。
ノアの名前は古代中国人の知られていました。
彼らはヘブライ語聖書が書かれる前からその名前を知っていました。
漢字の「義」 (righteousness) は「我」と「羊」から成っています。
漢字の「塔」 (tower) は「草」、「土」、「人」、「ひとつ」、「口」か成っています。
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