輸血は、人生でたびたび起こる問題ではありません。
命が極めて危険なとき、一般に命を救うという目的で輸血が行われます。
人々は助かることを望んで、リスクを覚悟で輸血を承諾します。
そして、助かり、輸血による後遺症(病気の感染その他)もなく過ごす人もいますし、助かり、その後輸血の後遺症に付き合う人生を送る人もいます。また輸血の甲斐もなくお亡くなりになる方もいます。
他方、輸血を受け入れず、
助かり、何の後遺症もなく人生を送る方もいますし、お亡くなりなる方もいます。
輸血を含む医療行為にはメリット、デメリットがあり、なにを受けるかは自己責任で決定する必要があります。
他の人がその決定を支配することはできないでしょう。
JWの場合、神との関係があらゆる決定の第一要因となります。
そして、クリスチャンは「血を避けるように」との命令の下にあります。
律法契約下における例外から学ぶ
律法契約下において血を飲んだり、血の滴る肉を食べることは禁じられていました。その違反は死刑でした。
では、例外的な事例がありますか。
イスラエルの王、サウルはフェリスティア人との戦いの際にイスラエルの兵士に、一気に適を全滅させるために、一切何も口にすることがないように誓わせました。イスラエルの指導者が扇動したその愚かな誓いの結果、戦いで疲弊したある兵士たちは、ある時点で動物の肉を血を抜かずに食べ始めました。
サウルの息子のヨナタンは、森で見つけた蜂蜜を口にし生気を回復し、戦いを指導し勝利をもたらしました。
神はこの事態の発展をどう扱いましたか。
サウルは、違反者の死刑を要求しましたが、民はヨナタンを贖いました。
そして、神はそのれを受け入れました。
また、動物の肉を血とともに食べた兵士たちを処罰することもありませんでした。
あなたは、この事件から何を学びますか。
少なくとも以下の点を学べるのではありませんか。
義に過ぎた愚かな要求は悲惨な結果(人に罪を誘発させる)を招く。
神は人が違反に至った背景を考慮し、憐れみの余地があるかどうかを見極め、憐れみを示される。
同じ教訓が、輸血の場合にも当てはまりませんか。
マタイ 12:7
7 しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。
ものみの塔は、「わたしは憐れみを望み、犠牲を望まない」ということの意味を全く理解していないことをその愚かな規則とその違反に対する憐れみのない制裁処置により示しています。
彼らは、輸血に関する無意味な細かい規則を設け、それにより不必要な殉教者を生み出しました。
しかも、いまだに自らの失敗を軽く見なし、命を落とした人々に対する謝罪もありません。
また、相変わらず自らを「神の代理店」と称し人々を支配し続けています。
ものみの塔は、輸血を受け入れたJWを罪を犯した人として組織的な制裁の対象と見なします。
この態度(霊)は、肉を血のまま食べたイスラエルの兵士たちを扱ったエホバ神の霊と調和するでしょうか。
わたしは、輸血を勧めているのではなく、罪悪感の扱いについて述べています。
輸血により助かり、全く罪悪感を感じていない人もいるでしょうし、罪悪感を持つ人もいるでしょう。
それは、神と当人との問題であり、宗教組織が罪に定めて制裁を課すものではありません。
ものみの塔インチキ「神の代理店」は、横暴にもその僭越な支配を行っています。
そのことについて、彼らは言い開きを求められるでしょう。
サムエル第一 14:31-45
31 そして,その日,彼らはミクマシュからアヤロンに至るまでフィリスティア人を討ち倒していった。それで民は非常に疲れた。32 そこで民は貪欲にも分捕り物に飛び掛かって,羊や牛や子牛を取り,それを地の上にほふりはじめ,民は血のままで食べだした。33 それで,人々はサウルに告げて言った,「ご覧なさい。民は血のままで食べて,エホバに対して罪をおかしています」。そこで彼は言った,「あなた方は不実なことをした。何よりもまず,わたしのもとに大きな石を転がして来なさい」。
34 その後,サウルは言った,「民の中に散って行って,あなた方は言いなさい,『あなた方は各々,自分の牛を,また各々,自分の羊をわたしのそばに連れて来て,ここでほふって食べなさい。あなた方は血のままで食べてエホバに対して罪をおかしてはならない』」。そこで民は皆,その夜,各々自分の手にある牛をそばに連れて来て,そこでほふった。35 こうしてサウルはエホバのために祭壇を築いた。これをもって彼はエホバのために祭壇を築くことを始めた。
36 後にサウルは言った,「夜のうちにフィリスティア人を追って下り,夜が明けるまで彼ら[のもの]を強奪し,彼らの中にただのひとりも残さないようにしよう」。これに対して彼らは言った,「何でもあなたの目に善いことをしてください」。それから祭司は言った,「ここで[まことの]神に近づきましょう」。37 それでサウルは神に伺いはじめた,「私はフィリスティア人を追って下って行きましょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡されるでしょうか」。ところが,その日は彼にお答えにならなかった。38 そこでサウルは言った,「民の要人たちは皆,ここに近寄りなさい。今日,どのようにしてこの罪が起きたかを確かめ,見定めなさい。39 イスラエルを救い出す方であるエホバは生きておられるので,たとえそれがわたしの子ヨナタンにあっても,やはり彼は必ず死ぬことになる」。しかし民すべての中で彼に答える者はひとりもいなかった。
40 そして彼は全イスラエルにさらに言った,「あなた方は一方の側におり,わたしとわたしの子ヨナタンは―他方の側にいることにする」。そこで民はサウルに言った,「あなたの目に善いことをしてください」。
41 次いでサウルはエホバに言った,「イスラエルの神よ,どうかトンミムをお与えください!」 するとヨナタンとサウルが取り分けられ,民のほうは退いた。42 そこでサウルは言った,「くじを引いて,わたしかわたしの子ヨナタンかを決めなさい」。するとヨナタンが取り分けられた。43 そこでサウルはヨナタンに言った,「何をしたのか,ぜひわたしに告げなさい」。それでヨナタンは彼に告げて言った,「私は手にある杖の先で少しばかりの蜜を確かに味見しました。私はここにいます! 私を死なせてください!」
44 そこでサウルは言った,「ヨナタン,もしお前がどうしても死なないなら,神がそのようになさり,重ねてそのようになさるように」。45 しかし民はサウルにこう言った。「イスラエルでこのような大いなる救いを施したヨナタンが死ななければならないのですか。それは考えられないことです! エホバは生きておられます。[ヨナタン]の髪の毛はただの一本も地に落ちることはありません。彼は今日,神と共に働いたからです」。こうして民はヨナタンを請け戻したので,彼は死ななかった。
ものみの塔マイコンロボットのコメントについて
マイコンロボット さんの発言この辺は無宗教者と宗教者で感じ方がかなり変わるんじゃないかな、とは思うのですが、エホバの証人の場合、死はマラソンのゴールテープなんですよ。褒章はその先にある。では自殺すればという事になるかもしれないけど、自殺は罪なので途中棄権ですね。褒章は貰えない可能性のほうが高いという解釈です(不受理確定ではない)。
まず、救いは褒章ではありません。
それは、神の側の過分のご親切に因ります。
罪人は、自らの義を立証する行為により、救いを勝ち取ることはできません。
自殺に至る苦しみを知る神は、それぞれの自殺者に憐れみをお持ちです。
ヨブは厳しい試練の下、死を望みました。
聖書も、苦境の下にあるより、死が勝っていると教えています。
伝道の書 4:1-3
1 そして,わたしは日の下で行なわれているすべての虐げの行為を見ようとして自ら引き返した。すると,見よ,虐げられている者たちの涙がある。しかし,彼らには慰めてくれる者がいなかった。彼らを虐げる者たちの側には力があった。それで彼らには慰めてくれる者がいなかったのである。2 そしてわたしは,なお生き長らえている生きている者よりも,既に死んでしまった死者に祝いを述べた。3 したがって,その両者よりも勝っている者は,まだ存在していない者,日の下で行なわれている,災いの多い業を見ていない者なのである。
死は苦痛からの開放であり、復活までの心地よい眠りです。
死の眠りから覚めて後、憐れみの神により全ての不公正が正され、不正の犠牲者たちは味わった苦痛を何倍も上回る慰めと祝福を受けるでしょう。
ものみの塔のパリサイ人的な教えや環境の中で洗脳をされているJWたちは、このキリスト教の真髄を捕らえ損なっています。そのことをマイコンロボットのコメントは如実に示しています。
ガラテア 2:16
16 . . . 律法の業(自分の義を証明する業、あるいは宗教的行為や犠牲)によっては,肉なる者はだれも義と宣せられないからです。
ローマ 4:3-7
3 聖句は何と言っているでしょうか。「アブラハムはエホバに信仰を働かせ,彼に対してそれは義とみなされた」。4 さて,働く人に対して,給料は過分の親切ではなく,債務とみなされます。5 他方,業を行なわなくても,不敬虔な者を義と宣する方に信仰を置く人に対しては,その人の信仰が義とみなされるのです。6 ダビデも,神が業を別にして義とみなしてくださる人の幸いについて語っているとおりです。7 「その不法な行ないを赦され,罪を覆われた者は幸いである。8 エホバがその罪を考慮に入れることのない人は幸いである」。
わたしたち罪人は、神へ宗教的犠牲を捧げ自分の義を証明して、義を獲得することはできません。
むしろ、自分の罪を認めキリストの贖いにより許しを請うことによってのみ憐れみを示されます。
ルカ 18:9-14
9 しかし[イエス]は,自分は義にかなっているのだと自負し,ほかの人たちを取るに足りない者と考えるある人々にも次の例えを話された。10 「二人の人が祈りをするため神殿に上りました。一人はパリサイ人,他の一人は収税人でした。11 パリサイ人は立って,これらのことを自分の中で祈りはじめました。『神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。12 わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています』。13 一方,収税人は離れたところに立って,目を天のほうに上げようともせず,胸をたたきながら,『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言いました。14 あなた方に言いますが,この人は,先の人より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」。
信者B さんの発言
キリストの贖いはアダムの罪を相殺する法的根拠を備えただけで、救われるかどうかはその根拠+業=教理の実践であり、その教理の一つが輸血拒否であるとはっきり認めておられます。その是非については論じません。
これもマイコンロボットと同じ推論の延長線上のものの見方です。
悔改めにふさわしい業とは宗教団体が既定する宗教教理の実践ではありません。
JWの思いは、ものみの塔の決めた宗教活動の実践が神への愛と感謝の実証であるというものですが、その考えに立脚した崇拝の様式は、砂の上に立てられた家のようなものであり、洪水や嵐に耐えうるものではありません。
なぜなら、従順が神のことばに対するものではなく、人間の教理に対するものだからです。
マタイ 7:24-27
24 「それゆえ,わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな,思慮深い人に例えられるでしょう。それは岩塊の上に家を建てた人です。25 そして,雨がどしゃぶりに降って洪水が来,風が吹いて打ちつけても,その家は崩れ落ちませんでした。岩塊の上に土台が据えられていたからです。26 そしてまた,わたしのこれらのことばを聞いてもそれを行なわない者はみな,愚かな人に例えられるでしょう。それは砂の上に家を建てた人です。27 そして,雨がどしゃぶりに降って洪水が来,風が吹いて打ち当たると,その家は崩れ落ち,その崩壊はひどいものでした」。
宗教組織の教理ではなく、神のことばに従いなさい。
ものみの塔の中にいる聞く耳を持つ天才バカボン、マイコンロボットたち、自らのキリスト教からの逸脱を恥じ悔改めなさい。
そうすれば、ものみの塔インチキ「神の代理店」は倒産するでしょう。
ものみの塔の崩壊は、ものみの塔のインチキにより騙されてきた多くの羊のようなJWたちを、バビロンのひとつの支店から解放するでしょう。
仮にあなた方が悔改めず「ものみの塔」の偽りを暴かなくても、救いは外部からもたらされるでしょう。
ものみの塔インチキ「神の代理店」には、神の恵みも将来もありません。
ものみの塔バビロンにいる全てのJWの皆さん、
ものみの塔協会は、神とキリストの名を用いて騙りを働く国際宗教詐欺企業です。
「現時点での真理」や「増しゆく光」のキャッチフレーズは、身勝手な聖書解釈を続けるための欺きです。
これまで、彼らが公表した予言的な期待は全て外れました。
それによって、人生を棒に振った人々は単に宗教詐欺に騙されたに過ぎません。
そして、詐欺師は決して被害の責任を取りません。
しかし、話はこれで終わりではありません。
神は、この国際宗教詐欺集団に言い開きを求めるでしょう。
ものみの塔を含むサタンの世の全ての詐欺団体(政府、企業、宗教、教育、医療、その他の組織)は、やがて公正な裁きにより終わりをむかえるでしょう。
キリストの到来は人類にサタンの世とその欺きと圧制からの開放をもたらします。
ペテロ第二 3:10-13
10 しかし,エホバの日は盗人のように来ます。そのとき天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう。
11 これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなた方は,聖なる行状と敬虔な専心のうちに,12 エホバの日の臨在を待ち,[それを]しっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その[日]に天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです。13 しかし,[神]の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。
輸血という医療行為に対するskの見方
これは、単に1個人の見方であり宗教的な基準ではありません。わたしはこれまで輸血を必要とするような緊急事態に至ったことはありません。
宗教的な教えを抜きにして、全く医療上のリスクの視点でものを見た場合、わたしは全血輸血を受け入れる気持ちにはなりません。
医療処置に対する個人的な見方と、ものみの塔JWの輸血に対する宗教的な見方は別物です。
聖書が輸血を禁じているかどうかを争点にしても答は得られないでしょう。
なぜなら、聖書にそのような記録はないからです。
血について、聖書はクリスチャンに「血を避ける」ように指示しています。
ものみの塔の問題は、その解釈を細かく規定し全てのクリスチャンに適用する律法とし、それによって人々を裁き制裁を課しているところにあります。
そのような権威を神から与えられている人、団体はありません。
ものみの塔がなぜあえてそのような僭越なことをするかというと、同じ弱さをもつ人間であるにもかかわらず自らを「神の代理店」と思い込んでいるからです。
この「神の代理店」という偽りはサタンによって作られました。
サタンは、ものみの塔が始まった1876年から今日まで、ものみの塔を「神の代理店」に仕立て上げ、それによって神を求める羊のような人々を世界中で700万人欺くことに成功しています。
同じことが、他の宗教組織にも当てはまります。
他の宗教組織も同じように自分たちを「神の代理店」と見なしているでしょう。
それは、サタンの欺きに因るのであり、多くの人は「神の代理店」というマントラによって騙されます。
テサロニケ第二 2:3-4, 9-12
3 だれにも,またどんな方法によってもたぶらかされないようにしなさい。なぜなら,まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わし示されてからでなければ,それは来ないからです。4 彼は,すべて「神」と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神(神の代理店)として公に示します。
9 しかし,不法の者が存在するのはサタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴い,10 また,滅びゆく者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴っています。彼らが[こうして滅びゆくのは],真理への愛を受け入れず,救われようとしなかったことに対する応報としてなのです。11 そのゆえに神は,誤りの働きを彼らのもとに至らせて,彼らが偽りを信じるようにするのであり,12 それは,彼らすべてが,真理を信じないで不義を喜びとしたことに対して裁きを受けるためです。
とはいえ、本当に真理を愛している人々は、最終的に真理(あるいは真実)を知るように助けられるでしょう。真理や真実の前に偽りや欺きは、火で焼かれる紙くずであり、焼かれた紙くずにはそれ以上人を欺く力はないでしょう。
それで論ずべき核心は、
輸血拒否が聖書的な要求かどうかとか殉教かどうかではなく、
ものみの塔協会は本当に「神の代理店」かという点です。
不完全な人間の団体である「ものみの塔」が本当に神を代表しているのでしょうか。
彼らがJWの信仰の主人であるかのように、輸血の問題で人々を裁き制裁を課す権威を本当に神から託されているのでしょうか。これまでの「ものみの塔」の問題の扱い方は何を物語っていますか。
わたしは、ものみの塔の独善的な霊が神に由来するとは到底思えません。
この掲示板で暴露してきた、ものみの塔協会の実態は作り話や偽りではありません。
これらの都合の悪い事実を見ないように、あるいは聞かないようにとしきりに要求しているのは、ものみの塔協会の方です。
また、ものみの塔協会は、自ら出版している美化された自らの歴史の記録だけを読むようにJWに強要していますが、そのような教育は本当の教育でしょうか。それは全ての国家が行っていることと同じことではありませんか。少なくとも国家の方は、国家批判を読むことができますが、ものみの塔の場合それは完全にタブーとされ、あえてそれをするなら、背教者とされ、排斥されるでしょう。
外部の情報は見るな、聞くな、読むなと規制し、ものみの塔が提供する情報だけが偽りで汚染されていない清い水であるという考えを植え付ける行為を情報統制といいます。
ものみの塔協会は情報統制を行い、JWはそれによって洗脳されています。
エホバの証人の兄弟姉妹、事実を調べることを恐れないで下さい。
テサロニケ第一 5:21-22
21 すべてのことを確かめなさい。りっぱな事柄をしっかり守りなさい。22 あらゆる形の悪を避けなさい。
エホバの証人の社会の閉鎖性について
輸血の問題を含め、JWの会衆においては、天才バカボン(長老たち)の監視の下、教理に関して「ものみの塔」の解釈以外の自由な意見交換はあり得ません。ものみの塔研究、書籍研究、はすべて「ものみの塔の協会」の見方や解釈だけで推論が進められそれ以外の注解は歓迎されません。
ものみの塔研究での出来事
ある「ものみの塔研究」で、高等教育について消極的な解説がなされている節で、一人の兄弟が以下のような注解をしました。
「大学に行かないで、アルバイトやその他の仕事についたとしても、世の人との接触は避けられず、どこにいても、つまり大学に進学しても、しなくても条件は同じであり、大学だけが特に危険であるかのように強調するのはおかしい。
むしろ大学教育を活用することによる益のほうをなぜ強調しないのか。
自分は大学に行かずにアルバイト人生を始め、低賃金労働に甘んじなければならない多くの兄弟たちの経済苦を見てきて協会の方針に疑問を感じる。
この問題における協会の教えは個人の事情や立場を無視した上からの命令であり、キリストの教えと異なっている。」
わたしは、その兄弟の注解を聞いて、拍手しました。
すると、集会が「しら~っ」と白けました。
ものみの塔司会者は、何も答えずに次の節へ進みました。
その後、わたしが協会の方針と異なる注解に拍手したことについて、会衆のある長老(天才バカボン)から「もし、このようなことが再びあるなら、兄弟の注解は指名しません。」との警告がありました。
注解した当の兄弟は、会衆から追放され、別の会衆へ移りました。
エホバの証人は、このような閉鎖的な風土の中で、ものみの塔の教えをいわば無理やり食べさせられています。
おそらく、多くの兄弟姉妹たちは、高等教育、誕生日、乾杯、スポーツとしての格闘技、新年の挨拶、地域社会の宗教的な意味を失った風習や習慣、輸血、排斥、野外奉仕、集会、寄付その他について協会の強引な解釈とは異なった見方を持っていると思います。
しかし、それらについて自由に自らを表現することができないため、また違反に対する協会の制裁処置のために、それらの個人的なことを自分で決めることを放棄していると思います。
ある人の場合、それが精神的な負担となり、うつ病になったり自殺にまで至ります。
ものみの塔は、その独善的な教えにより人々の肩に背負いきれない重荷を課していると思います。
輸血の問題も、エホバの証人の視点から別の視点(一般的な視点)で考えてみると、それがキリストの教えに反しているとは思えないでしょう。
エホバの証人は、輸血を「血を避けなさい」という戒律を犯す行為とみています。
しかし、一般的に輸血は命を救う行為と見なされています。
聖書中では、血は命を表し、罪の許しのために用いられています。
血による贖いにより、死すべき命が救われます。
つまり、聖書の教えでは血は人命救助においてのみ使用が限定されれていると見なせます。
贖いについて、イエスは自らを「天から下って世に命を与えるパン」にたとえました。
そして、「わたしの肉を食べ、血を飲まない限り命は得られない」と教えました。
ヨハネ 6:48-51, 53-58
48 「わたしは命のパンです。49 あなた方の父祖は荒野でマナを食べましたが,それでも死にました。50 これは天から下って来るパンであり,だれでもそれを食べる者が死なないためのものです。51 わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます。そして,本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」。
53 そこでイエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなた方は自分のうちに命を持てません。54 わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。55 わたしの肉は真の食物であり,わたしの血は真の飲み物なのです。56 わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は,ずっとわたしと結びついているのであり,わたしもその者と結びついています。57 生ける父がわたしをお遣わしになり,わたしが父によって生きているのと同じように,わたしを食する者,その者もまたわたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。それは,あなた方の父祖が食べてもなお死んだようなものではありません。このパンを食する者は永久に生きるのです」。
イエスは、人類を罪と死から救済するためにご自分の命(血)を用いました。
もちろん、輸血によってではありませんが、この命(血)の用い方自体は、自分の愛するものを死から救うために自分の命(血)を用いることを否とするでしょうか。
親はわが子が助かるなら自分の肉や血を惜しまないでしょう。
その気持ちはキリストが人類に対して示された愛と変わらないと思います。
ヨハネ 15:12-13
12 わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛すること,これがわたしのおきてです。13 友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません。
全てのクリスチャンは、キリストが弟子たちを愛したとおりに互いを愛するように命じられています。
キリストは人類のためにご自分の命を用いました。
そうであれば、親が我が子の為に自分の命(血)を用いることを非難できますか。
輸血という医療処置をどう見るかによって、この問題の扱いが変わってきます。
一般の人々は輸血を命を救う行為とみています。
他方、エホバの証人は「血を避けなさい」という戒律を犯す行為と見るように教え込まれています。
もし、エホバの証人が輸血という医療行為をリスクが伴うにしても、他の人の命を救う行為と見なせば、キリストの教えに調和してその行為を否定できないでしょう。
輸血が血の誤用に当たらないと判断し倫理的な問題をクリアーできたとしても、輸血はリスクフリーではありません。
血は複雑な臓器です。
血は指紋と同じでそれぞれ異なります。
完全にマッチする輸血はあり得ません。
遺伝的な欠陥、感染症の危険、不適合その他など、血はそれ自体リスクを持っています。
ですから、倫理的には認められても、現実的な危険が存在している可能性を受け入れる必要があります。
各自が自分の信仰と置かれた立場、健康状態などを考慮して決定すると良いと思います。
宗教団体や他の人が当人の決定を裁いたり制裁を加えることなどできないでしょう。
憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない
使徒パウロは、おそらく復活したイエスの栄光を目の当りにしたために、その後生涯にわたり目が悪くなりました。パウロの働きに感謝していた兄弟たちは、パウロに愛情を持ち彼のために何でもしたいと思っていました。ガラテア人に宛てた手紙の中で、パウロは兄弟たちの気持ちを次のように表現しています。
ガラテア 4:15
15 . . . あなた方は,できることなら自分の目をえぐり出してわたしに与えようとさえしてくれました。
親がわが子の命を救うために、自分の肉や血を与えたいと思うことは極めて自然なことです。
それを、決して犯してはいけない戒律としているのは、ものみの塔インチキ「神の代理店」です。
そして、それを愛や憐れみの視点ではなく、犠牲の視点で捉えているのが盲目のエホバの証人たちです。
マタイ 12:7
7 しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。
もちろん、良心的に輸血を拒む人を非難することもできません。
背後に輸血をできない事情があるのでしょう。
泳げない人は、助けたくても溺れている人を助けることはできないでしょう。
個人を正確に裁ける方は、人や宗教団体ではなく神ご自身でしょう。
ヘブライ 4:13
13 そして,[神]のみ前に明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません。
お医者さんのiris姉妹のコメント
神は「赤血球・白血球・血小板・血漿は主要成分である。その他のものは主要成分でない」とお考えなのでしょうか?
神は人間の肉体を非常に巧妙に創造されました。
アルブミンも免疫グロブリンも凝固因子も絶対に欠かせないものであり、それがなければ生命を維持することはできません。
多量に存在するものは多量に存在することに意義があり、微量に存在するものは微量に存在することに意義があるのです。
微量元素は過剰でも欠乏しても健康を損ないます。
神の与えて下さった身体の成分に優劣をつけることができるほど、ものみの塔は優れているのでしょうか?
知恵の書 11章23‐26節
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。
コリントの信徒への手紙一 12章21‐22節
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
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