まず、はじめに日本語で神と訳されているエロヒーム(ヘブライ語)、セオス(ギリシャ語)について説明させてください。
それらの言葉(英語ではGod, god、日本語では神)は、天と地の至高の創造者、霊者(良い場合も悪い場合も)、権威を持つ人などに関連して用いられています。
神への敬意や服従について
神と訳されるその言葉「エロヒーム」は、権威や力の象徴であり、その権威の下にある者の服従や敬意とかかわっています。敬意や服従は上位の権威、或いは力とかかわっている感情や振る舞いです。
敬意や服従の延長線上に崇拝があります。
敬意や服従の極値が崇拝であり、それは至高者だけのものです。
崇拝以外の敬意や服従は、至高者以外のそれに値する者たちへの相対的なものです。
敬意や服従のルーツには、至高者の属性を付与された神の子たちの各々の価値に対するふさわしい認識や愛があります。
わたしにとって神は、この天と地の創造者であられる至高者のことです。
その方は、聖書の中でヘブライ語のアルファベットのYHWHという名前で知られています。
発音は、エホバに近いと思います。
フランスの学者たちがそう主張していますし、現代のユダヤ人のクリスチャンたちはイェホバーと発音しています。
1530年にウィリアム・ティンダルはイエホウア(IEHOUAH)と記しています。
この点で、日本人の用いているエホバはより古代ヘブライ語の発音に近いと見なされています。
なお、➡ 日本の神道のルーツは、サマリアから渡ってきたイスラエルの10部族のガド部族の崇拝の様式です。
この事実はネットで検索すればいくらでも証拠を調べることができます。
関心のある方は、試してみてください。
天地の創造者が存在することは、私にとって明白であり、その方について知ること、つまりその方の目的、人類の死や悲しみ、苦痛、不公平の存在する理由、その解決の希望、またその方の憐れみや愛について学ぶことは、正しいことを行う勇気と希望の源(動機付け)となっています。
ですから、真の神は、天地の創造者、命の源、至高者であられるYHWHと、聖書の中で自ら名乗っておられる方です。
無心論者
さて、無神論についてですが、理性や、自然の摂理、巨大なもの、圧倒的な力などに畏怖の念を持ち、それを敬意や服従の対象としている人たちがいます。自然を崇拝する人たちは、それらの創造物を拝んだり手を合わせたりして崇拝の行為を行います。
しかし、それらは神の神性の表れに過ぎず神ご自身ではないので彼らの崇拝は至高者であるYHWHに至りません。
それを至高者YHWHがどう見なしているかは至高者ご自身の問題であり、私と関係ありません。
心を見られる至高者ご自身が、誰がご自分を求めているかを見定め、そのような人に恵を示されるでしょう。
わたしは、至高者の作品の美、知恵、バランス、力に驚き、喜びを感じ、それらを創造されたYHWHに感謝し、その方を崇拝し、その方のご意思に服します。
アインシュタインはユダヤ人ですが、彼の思いは、自然界に表明されている英知を知ることに留まっており、その英知の源とかかわることに関心がないみたいですね。
マァ~、そのような方が大半だと思います。
その現状について私は何の意見もありません。
それは、私と何の関係もないからです。
わたしが、既に何度も書いていることですが、至高者YHWHは、人をその人が持つご自身に関する知識によって裁くのでありません。むしろご自分の像、つまり属性(特に隣人に対する愛や憐れみ)によって裁かれます。
全ての人は神の像を持っています。
ですから個人の内なる人が自分自身の発言や行為が愛や憐れみや正義にかなっているか、つまり至高者YHWHの像にかなっているかを証しします。
至高者YHWHは、無視論者、有神論者、宗教の違いにかかわらず、まず全ての憐れみ深い人たちを救うでしょう。
その救いにあずかること、つまり神の救いの業を見て経験することは、大半の人々にとって自分に救いをもたらした至高者YHWHを知る、あるいは学ぶ第一歩となるでしょう。
■ 救われてから知るのであって、知ってから救われるのではありません。
この点で、ものみの塔インチキ神権組織が教えていることは、逆ですね。
ものみの塔の偽りの教えは、
要約すると「救われるためには、知識が先で、知らないものは救われない」です。
ものみの塔は神を知ること、また救われることを大学入試のようなものにしてしまっています。 加えて「ものみの塔」は、傲慢にも自分たちの組織が至高者YHWHの代理店で、ここから出たら救いはないと言います。
全くついていけないね。
そんな現実離れした狭量なことを言うからカルトと見なされるんだろうなぁ~
アッ!間違った。本当にカルトだった。
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