Thursday, July 2, 2015

神に従うことは宗教組織と関係ありません

聖書は、アダムの全ての子孫への神からの手紙です。(テモテ第一 2:4-7)

それで、望むものは誰でも聖書を読み理解し、聖書の真理に信仰を持つことができます。

それは、神のご意思です。

しかしながら、私たちはまだサタンが支配する世に生活しています。(ヨハネ第一 5:19; コリント第二 4:3-5)

また、エホバ神は真の崇拝者を求めています。(ヨハネ 4:23-24; ヘブライ 11:6; テサロニケ第二 3:2; ヨハネ 6:44, 65)

啓示も含めて聖書の内容の全ては、宗派に関わらず聖書を所有する全ての人に宛てられています。
キリスト教のどのグループも、啓示の7つの会衆に対する手紙を自分たちに適用していると思います。

キ リスト教のそれぞれの教会、グループ、組織は、自分たちが「神の家」または「キリストの追随者」であると思って、そう告白しています。それで、キリスト教 の各グループは、自分たちの理解やクリスチャンとしての活動に関し神に対して責任があります。それは、個々の人々が神に対して責任があるのと同じことです。

キリストが戻られるとき、裁きがいわゆる「神の家」から始まると、それぞれのグループまたは組織は思っています。それで、み使いたちは世界のキリスト教の中で雑草から小麦を分けることになります。

その分ける基準は、邪悪への憎しみや、他の人への思いやりのようなものと思います。(エゼキエル 9:4; マタイ 5:7, 9:13, 12:7, 14:13, 22:23; ヤコブ 1:27, 2:13; ペテロ第二 3:11; ローマ 2:13-16)

コリント第一 13:12 で「現在わたしが知っているのは部分的なことです」と書かれているとおり、教理は分ける基準とはならないでしょう。

キリストを信じるものはキリストを主と見なしていますので、エホバの証人も含めて全てのキリスト教信者たちは、マタイ 7:22 に書かれているようになるでしょう。

マタイ 7:22
その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。

イエスは、「主よ、主よ」と言うもの、つまりクリスチャンを自称する全ての者を分ける対象としています。

マタイ 7:21
わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。

み使いたちは、世界中のクリスチャンと称する者の中から「神のご意思を行なっている者」を集めるでしょう。

そしてエホバ神は、愛ある親切と公正と儀を行なう者を喜ばれます。(エレミヤ 9:24)




次に高度に組織化された宗教組織の中にあっても人は聖書の真理に答え応じることができることを考えてください。



ウィリアム・ティンダル (William Tyndale)

16世紀のプロテスタント宗教改革の指導的な人物
彼は、ヨーロッパでギリシャ語の新約聖書を入手できるようにしたエラスムス (Erasmus) と、ローマーカトリックの修道士マルティン・ルター (Martin Luther) により影響を受けました。
ティンダルの聖書は、ヘブライ語とギリシャ語写本から直接翻訳された初めての英語の聖書でした。その最初の英語の聖書は印刷機を活用して出版され、最初の改革の新英語聖書となります。

彼は神学をオックスフォード大学で学びました。

しかし、彼はその当時の宗教的な環境をについて不満を述べています。
「彼らは、異教徒の学習を8-9年して、偽りの原理で武装してからでないと誰も聖書を見ないように制定している、それによって聖書の理解を全くできないようにしている。」

ティ ンダルは、1521年ごろジョン・ウォーシュ (John Walsh) 卿の家のの牧師 (chaplain) 、また彼の息子の養育係になります。彼の意見は仲間の聖職者と論争となります。そして1522年ごろ彼は、正式な訴訟なしにウィスター (Worcester) の主教管区の首相ジョン・ベル (John Bell) の前に出頭します。

ベルとその他の指導者たちによる厳し い聴聞の後、またリトル・サードブリー (Little Sodbury) におけるティンダル時代の終わりに、ジョン・ホックス (John Foxe) は、ティンダルに「ローマ教皇の掟がないより、神の律法がない方がましである」と断言した学識のある、しかし不敬な僧職者との論争について描写しています。

ティンダルはこう返答します。
「わたしは、ローマ教皇と全ての彼の律法を拒否します。もし神がわたしの命を助けてくださるなら、何年もしないうちに、鋤を引く少年があなた方よりも、もっと聖書を分かるようにします。」
ティンダルの神学上の見方
ティンダルは聖者に対する祈りを非難しました。彼は、信仰による儀、信者としてのバプテスマ、キリストの帰還、そして魂は不滅でないことについて教えました。


マルティン・ルター (Martin Luther)

プロテスタント宗教改革の象徴的人物、16世紀のカトリック修道士

彼は、神による罪の懲罰からの放免がお金で買えるとの主張に強力に異議を唱えました。1517年の「95ヶ条の論題」で免罪符の販売人ヨハン・テッツェル (Johann Tetzel) と対決しました。1520年の教皇レオ10世 (Leo X) の要求と、1521年のウォルムス (Worms) 地方議会における神聖ローマ帝国皇帝チャールズ5世 (Charles V) の要求による全ての彼の出版物の撤回の拒絶は、教皇による破門とローマ帝国による犯罪者の宣告を招きました。

ルターは、救いが善行によって獲得されるものではなく、ただ神の恵み (grace) による無償の贈物として罪の贖い主であるイエスキリストに対する信仰をとおして得られると教えました。彼の神学は、聖書だけが神により明らかにされた知識の源であると主張することにより、ローマカトリック教会の教皇の権威に挑戦しました。それは、また全てのバプテスマを受けた信者は聖なる祭司職であると見 なすことにより、聖職尊重主義に反対しました。

ルターにとって推論は、神に対してではなく、人間や公共機関に対する疑問に用いられるものでした。人間は神による啓示をとおしてのみ神について学ぶことができると彼は信じていました。それで、聖書は彼にとってますます重要なものとなりました。

彼は、使徒パウロがかってユダヤ教に熱心であったように、カトリック教会の伝統に深入りしていました。(ガラテア 1:14)

ルターは、断食、長時間の祈り、巡礼、そして頻繁な告白などに打ち込み修道士の生き方に献身していました。後日彼は「修道士として天の報いを得られる者がいるとすれば、私は正にそのうちにいます。」と述べています。

ルターはこの時期の生活を深い霊的な絶望のひとつと描写しています。彼は「私は救い主で慰めであるキリストとの接触を失い、またキリストを私の哀れな魂の看守また絞首刑執行人としてしまいました」と述べています。





上記の2つの例は、宗教組織によって強要される偽りの教理に囲まれていたとしても、人は確信を与える聖書の真理によって導かれ得ることを示しています。

それですから聖書の真理は、鉄を引寄せる磁石のようです。それは、神を本当に求めている人々を引き付けるでしょう。また神に傾く人たちは、真理を求め続け、探し続 け、たたき続けるでしょう。(マタイ 7:7-11)

最終的にそれら真理探究者たちはクリスチャンにとって「より重要なこと」を見出すでしょう。




クリスチャンにとって「より重要なこと」 
マタイ 7:12
「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです。

ガラテア 5:14
律法全体は一つのことば,すなわち,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。

ヤコブ 2:8
そこで,もしあなた方が,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という聖句による王たる律法を実践しているのであれば,あなた方はりっぱに行動していることになります。

コリント第一 10:23-24
すべての事は許されています。しかし,すべての事が益になるわけではありません。すべての事は許されています。しかし,すべての事が築き上げるわけではありません。

ルカ 10:25-37
25 さて,見よ,律法に通じたある人が立ち上がり,彼を試そうとしてこう言った。「師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」。26 [イエス]は彼に言われた,「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読みますか」。27 彼は答えて言った,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身 のように[愛さねばならない]』」。28 [イエス]は彼に言われた,「あなたは正しく答えました。『このことを行ないつづけなさい。そうすれば命を得ます』」。
29 しかしその人は,自分が義にかなっていることを示そうとしてイエスに言った,「わたしの隣人とはいったいだれでしょうか」。30 イエスは答えて言われた,「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中で,強盗たちに襲われました。彼らはその衣をはいだうえに殴打を加え,その人を 半殺しにして去って行きました。31 さて,たまたま,ある祭司がその道路を下って行くところでしたが,その人を見ると,反対側を通って行ってしまいました。32 同じように,ひとりのレビ人もまた,そこまで来て彼を見ると,反対側を通って行ってしまいました。33 ところが,その道路を旅行していたあるサマリア人がやって来ましたが,彼を見て哀れに思いました。34 それで,その人に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやりました。それから彼を自分の畜獣に乗せ,宿屋に連れて行って世話をしたのです。35 そして次の日,デナリ二つを取り出し,それを宿屋の主人に渡して,こう言いました。『この人の世話をしてください。そして,何でもこれ以外にかかるものが あれば,わたしがここに戻って来たときに返しますから』。36 これら三人のうちだれが,強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか」。37 彼は言った,「その人に対して憐れみ深く行動した者です」。するとイエスは言われた,「行って,あなたも同じようにしてゆきなさい」。

真の神の崇拝者ではないサマリア人は神の象をより良く表しました。
彼は宗教家ではありませんでした。



ヤコブ 1:25, 27
25 しかし,自由に属する完全な律法の中を熟視し,[それ]を守り通す人,その人は,聞いてすぐに忘れる人ではなく,業を行なう人となっているので,[それを]行なうことによって幸福になります。
27 わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです

ヤコブ 2:12-13
12 自由の民の律法によって裁かれようとしている人のようにいつも話し,またいつもそのように行動しなさい。13 憐れみを実践しない人は,憐れみを示されることなく[自分の]裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。


クリスチャンのとって重要なことは、宗教組織の活動ではなく、良心的に神の象を反映する事です。

2 comments:

  1. 検索をしていたら、ここを見つけました、元エホバの証人の方ですか?
    私は、元エホバの証人です、しかし、体を壊し一旦辞めたのですが、復帰するつもりでした、しかし、同和について調べていくうち、行ける組織が無くなりました、何処もサタンの組織に成っている様なので、やはり、1人で聖書を読み、祈り生活するしか無いのでしょうか?!

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  2. 音無小夜さん

    こんばんは、


    はい、元エホバの証人です。

    はい、この世はサタンの世です。
    組織は、サタンのニムロデシステムで神のものではありません。

    イエスは、人々をユダヤ教の組織から開放しました。

    それで、クリスチャンは人間の組織に属しませんけど、
    サタンの世が続く限り、ニムロデシステムと付き合って行かねばなりません。


    でも、イエスのように世のものではない生き方をします。

    イエスは組織に属さず単独で行動しました。
    人々はイエスの教えや、メシアとしての活動によりイエスの弟子になりましたが、イエスは人々を組織しませんでした。

    イエスの弟子となった人々は、組織の一員となったのではありません。
    クリスチャンは宗教組織のために働いたのではなく、救いの良いたよりを信じて、それを他の人々に伝えました。
    クリスチャンの信仰は個人的なものであり、同じ信仰を持つ人々は互いに兄弟関係にあります。
    地上にクリスチャンの指導者など存在しません。
    指導者は天にいるイエスご自身です。


    マタイ 23:10
    10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。


    お尋ねの「やはり、1人で聖書を読み、祈り生活するしか無いのでしょうか?! 」についてですが、

    聖書は独りで読みます。
    祈りも独りでします。
    神とのつながりは極めて個人的なものです。
    そこに他人(宗教組織や宗教指導者)が入る余地はありません。

    ひそかに見ておられる神が、各自に報いてくださいます。

    マタイ 6:6
    6 しかし,あなたが祈るときには,自分の私室に入り,戸を閉じてから,ひそかなところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば,ひそかに見ておられる父があなたに報いてくださるでしょう。


    クリスチャンは真理を知るゆえに、サタンの偽りと世の欺きから自由であり、
    また、将来の真の命の希望の故に喜び、他の人に思いやりや親切を示す愛ある人になれます。
    そのようにして、人々の助けになれます。
    クリスチャンとなった人が、人との接触を嫌って孤立して生きることはないでしょう。
    クリスチャンは聖書オタクではありません。

    クリスチャンとして生きれば、結果としてキリスト教の真理を広めることになります。

    クリスチャンの宣教は、神とその救いの手立てについての真理を個人的に証しすることであり、また隣人愛を実践する生き方の推薦です。宗教組織、またはグループへの勧誘ではありません。


    真のクリスチャンは、自分ひとりではありません。
    クリスチャンとして生きていれば、いづれ真理や真実を愛する信仰の仲間を見出すことになると思います。


    敬虔な専心は、まず家族から実践するといいですよ。

    テモテ第一 5:4
    4 しかし,やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです。

    テモテ第一 5:8
    8 当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです。


    マタイ 7:9-12
    9 実際,あなた方のうち自分の子からパンを求められるのはだれでしょうか―その人は石を渡したりはしないではありませんか。10 あるいは,[子]は魚を求めるかもしれません―その人は蛇を渡したりはしないではありませんか。11 それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供たちに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなた方の父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです。
    12 「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです。


    ルカ 6:30-31
    30 あなたに求める者にはだれにでも与え,あなたの物を取ってゆく人からは,[それを]返してもらおうとしてはなりません。
    31 「また,あなた方は,自分にして欲しいと思うとおりに,人にも同じようにしなさい。


    キリスト教を実践すれば、愛ある人になれます。
    そして、結果として真理は人々に広まってゆくでしょう。


    自分の生活圏で、身近な人達に良いことを行う人になり幸福に暮らしてください。


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