Monday, June 29, 2015

偽預言者

終わりの日の予言の中で、イエスは「その時が近づいた」と述べる偽預言者たちに気をつけるように警告を与えています。

ルカ 21:8
8 [イエス]は言われた,「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがそれだ』とか,その時が近づいたとか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません。


英語の表現は、
Lu 21:8   English Standard Version (©2001)
And he said, “See that you are not led astray. For many will come in my name, saying, ‘I am he!’ and, The time is at hand!’ Do not go after them.

であり、'The time is at hand!' という表現に注目してください。

惑わすものは、「その時が近づいた」 (The time is at hand!) と言うと述べられています。
そして、「その者のあとについて行ってはなりません」と警告されています。

その者とは誰でしょうか。












1889年にCT ラッセルが出版した最初の本のタイトルは、
THE TIME IS AT HAND 「時は近づけり」でした。










そして、その100年後の時点でさえ、CT ラッセルが始めた組織は、同じ事を述べています。
1988
Revelation Its Grand Climax At Hand! 「啓示の書―その壮大な最高潮は近い!」







3代にわたるエホバの証人の家系の元べテル奉仕者で、ものみの塔の実体を見破り「ものみの塔」バビロンを後にしたマタイ (Matthew) 兄弟の短いビデオからの情報です。
 





聖書の予言には、2つのタイプがあります。

1つは、理解が期待されている予言で す。例えば、それは将来起きることの警告で、誰でもその意味を理解できます。このタイプの予言は命を救うための明確な指示を伴っています。この予言は他人 の解釈を必要としません。例をあげると、西暦70年のエルサレムの滅びがあります。ルカの記録ではエルサレムが駐留軍の先のとがった杭で囲まれたら滅びが 近いのでその都市から出て山へ逃れるように指示されています。(ルカ 21:20-21, 19:43)また、啓示の7つの会衆への予言的助言も、色々な適用の仕方があるにしても誰でも理解できます。この種の予言的警告は他人の解釈を必要とせず、だれでも理解できます。

これと対照的に、理解が期待されていない予言が あります。例えば、出来事の起きる時期や、ダニエルや啓示のように印や、シンボルによってなされている予言です。この種の予言は神がその意味を明かさない 限り誰も理解できません。そしてその多くは成就して後に、その意味が分かるようになっています。一例はメシアに関する予言があります。人々はメシアの到来後、つまり予言の成就の後に予言の意味を理解しイエスをメシアとして受け入れました。



予言の成就する時期について、

使徒 1:7
7 [イエス]は彼らに言われた,「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなた方のあずかるところではありません

マタイ 24:36
36 「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。

それで、知らないこと、または知ることが許されていないことがあることを認めるべきです。
そうすれば、それを知ろうとして無駄な努力を払うことはないでしょう。

この予言の成就の時期は、サタンが人を惑すのに用いやすい命題でしょう。
ある人はこの事実を知らないためか、または知りたいとの情熱が強すぎるためか、聖書中の数字を用いて、そもそも知る権利が与えられていない出来事の成就の時期を算定しようと試みます。

そのような人の中にチャールズ・ラッセルやフレッド・フランズがいます。
ラッセルは1914年、フランズは1975年にこだわり、両者とも、自らの確信を自ら妄想した架空の現実からみごとに裏切られ期待はずれの結果を刈り取っています。

彼らの悪い点は、自分の確信に満ちた推測を神からのものとして多くの人々を扇動したことです。ここに偽りの父サタンの働きを見ることができます。
それで、そのような無駄な試みを行なうべきではありません。
またそのような妄想によって踊れらされることがあってもなりません。

とはいえ誰にでも理解できる聖句を用いて推論することはできます。それでもそれはその人の推論であり、その人の思考の型の反映に過ぎませんのでそれをあたか も神からのものとして他の人に強要することはできないでしょう。

しかし健全な推論はおのずと明らかであり、多くの人々に容易に受け入れられるでしょう。それで、独善的になったりせずに自由に聖書から論じることは何も悪いことではないでしょう。色々な意見や見方やアプローチの仕方があり互いから学び合えるでしょう。

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