パウロの2回目の宣教旅行(マケドニアでの収穫)
西暦49年、パリサイ派出身の信者の律法主義が作り出した割礼についての問題の解決のあと、バルナバはいとこのマルコを伴って出身地のキプロスへ向かい、パウロはシラスを伴ってシリア、キリキアに向かって2回目の宣教旅行(西暦49-52年)を開始します。デルベ、ルステラの再訪問
パウロは ➡ 最初の宣教旅行で訪れたデルベ、ルステラを再び訪問します。- デルベは、1年ほど前の最初の宣教旅行の際の最後の訪問地で、そこで多くの人々が信者となりました。
- ルステラは、パウロが生まれつき脚のなえた人を癒したので住民がパウロとバルナバを神と思い犠牲を捧げようとした所です。
今回、そのルステラでパウロはテモテに会い、宣教旅行へテモテの同伴を求めます。テモテの父はギリシャ人で、母はユダヤ人の信者です。
近隣のアンティオキアやイコニオムには律法に熱心なユダヤ人が大勢住んでいました。その多くはパウロが宣べ伝えた良いたよりに反対していました。第1回目の宣教旅行の際、それらのユダヤ人はルステラまでやってきてパウロを石打にし、死んだと思って市の外へ引きずり出しました。
そのような熱烈なユダヤ人の反対を予想し、言いがかりの原因をなくすため、パウロは宣教の同伴者となるテモテに割礼を求めます。この処置は熱烈なユダヤ人からくると予想される言いがかり対策であり、異邦人の信者たちに割礼を要求するものではありません。
パウロは、割礼の問題でエルサレムの使徒や年長者たちの至った決定を、デルベやルステラまた近隣地方の異邦人の信者たち、またユダヤ人の信者たちに伝えます。
その結果、会衆は強化され信者は増加してゆきました。
これまでの使徒たちの活動の記録からしても、クリスチャンの数は、西暦1世紀に優に144,000人を超えていたといえます。
➡ 使徒活動 1 | 西暦33年ペンテコステの日にキリストの弟子120人に聖霊が下る |
➡ 使徒活動 2 | 西暦33年ペンテコステから1月くらい、信者の共同体、3万人超え |
➡ 使徒活動 3 | 西暦36年迫害、エチオピアの宦官のバプテスマ、サウロの改宗、7万人超え |
➡ 使徒活動 4 | 西暦36-46年コルネリオのバプテスマ、サウロ活動、クリスチャン会衆の発展 14万人超え |
➡ パウロ宣教 1 | 西暦47-48年 小アジアにおけるパウロの最初の宣教旅行、20万人くらい |
➡ 割礼の論争 | 西暦49年 |
それで、歴史の事実は啓示の144,000人の数が文字どうりの数ではなく、全人類のあらゆる部族、言語から選ぶ、公平性、均等性の象徴であることを裏付けています。➡ 144,000人に関する聖書的な根拠はここを見てください。
使徒 16:1-5
1 こうして彼はデルベ,そしてまたルステラに着いた。すると,見よ,そこにテモテという名の弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の息子で,父はギリシャ人であったが,2 ルステラとイコニオムの兄弟たちから良い評判を得ていた。3 パウロは,この人が自分と同行するようにとの願いを述べ,その地域のユダヤ人のために,彼を連れて来て割礼を施した。その父がギリシャ人であることをみんなが知っていたからである。4 さて,彼らは諸都市を回って旅行を続けながら,エルサレムにいる使徒や年長者たちの決めた定めを守り行なうようそこの人たちに伝えるのであった。5 こうしてまさに,諸会衆は信仰において堅くされ,日ごとに人数を増していった。
マケドニアへの招待
その後、パウロの一行は神の導きによりマケドニア地方へ向かうことになります。使徒 16:6-12
6 また,彼らはフリギアとガラテア地方を回った。アジア[地区]でみ言葉を語ることを聖霊によって禁じられたからである。7 さらに,ミシアに下るさい,ビチニアに入ろうと努力したが,イエスの霊はそれを許さなかった。8 そこで彼らはミシアのそばを通ってトロアスに下った。9 そして,パウロは夜中に幻を見た。あるマケドニアの人が立って彼に懇願し,「マケドニアへ渡って来て,わたしたちを助けてください」と言うのであった。10 そこで,[パウロ]がその幻を見てからすぐ,わたしたちは,彼らに良いたよりを宣明するため神がわたしたちを呼び寄せてくださったのだと結論して,マケドニアへ行こうと努めた。
11 こうして,わたしたちはトロアスから船出してサモトラケに直行し,翌日ネアポリスに,12 そしてそこからフィリピに[着いた]。そこは植民地で,マケドニア地区の主要都市である。わたしたちはこの都市にとどまって幾日か過ごした。
神の霊は一行がアジア地方、またビチニアへ進むことを禁じました。
クリスチャンの宣教活動の背後に神の導きがあったことが分かります。
そうであれば、各クリスチャンはキリストが戻られるときまで、いつの時代も神とキリストの導きを期待できます。
マケドニア地方の主要都市のひとつフィリピでの収穫
ルデアとその夫が信者になります。悪霊につかれた下女から悪霊を追い出したためにパウロとシラスは杖で打たれ牢獄に入れられます。
しかし、真夜中に地震が起き枷(かせ)が外れます。出来事に驚いた牢番とその親族が神を認めて信者となります。
これらの新たに信者になった人たちは、ものみの塔のような宗教組織の一員となったのではありません。
それは、神とその救いの手立てであるキリストを信じる者になったということです。つまり神とキリストを信じて生き始めたということです。それは救いの希望を伴う生き方です。普段の生活の中で神のキリストによる希望について語ることができます。そのようにしてキリスト教は広まりました。
使徒 16:30-34
30 そして,彼らを外に連れ出してからこう言った。「皆様,救われるためにわたしは何をしなければなりませんか」。31 彼らは言った,「主イエスを信じて頼りなさい。そうすれば救われます。あなたも,あなたの家の者たちも」。32 そして,ふたりは主の言葉を彼に,またその家にいるすべての者に語った。33 そののち彼は,夜のその時刻にふたりを連れて行ってそのむち跡を洗った。そして,彼もその[家の者]もひとり残らずすぐにバプテスマを受けた。34 それから彼はふたりを自分の家の中に連れて来て,その前に食卓を据え,自分が神を信じるようになったことを家の者たちすべてと共に大いに歓んだ。
神とその愛ある目的、および救いの希望は人々に喜びをもたらし、サタンの世の不公正の中で自足して暮らす助けになるでしょう。キリスト教は地上の宗教組織の一員となることではありません。
フィリピを後にして、一行はテサロニケ、べレア、アテネを訪ねます。
それらの地での宣教はユダヤ人の扇動にも関わらず神の啓示のとおり実り豊なものとなります。
テサロニケでの出来事
パウロはユダヤ人の会堂で3週にわたり安息日で聖書から論じます。その結果当地のギリシャ人の多くが信じるようになります。
そうなると、いつものパターンでねたみに駆られたユダヤ人たちが扇動を起こし証の業を中断させます。
パウロたちはべレアへ送り出され、残ったヤソンと他の兄弟たちが扇動の矢面に立たされます。
使徒 17:1-4
1 さて,彼らはアンフィポリスとアポロニアを旅してテサロニケに来た。そこにはユダヤ人の会堂があった。2 それで,パウロは自分の習慣どおり彼らのところに入り,三つの安息日にわたって彼らと聖書から論じ,3 キリストが苦しみを受け,そして死人の中からよみがえることが必要であったことを説明したり,関連した事柄を挙げて証明したりして,「わたしがあなた方に広めているこのイエス,この方がキリストです」と[言った]。4 その結果,彼らのうち幾人かが信者となってパウロとシラスに加わり,さらに,[神]を崇拝する非常に大勢のギリシャ人,そして主立った婦人たちのうちのかなりの者もそうなった。
べレアでの出来事
ここでもパウロはユダヤ人の会堂で聖書から論じました。べレアの人々は極めて意欲的に聖書を調べ、その結果多くの人々が信者となりました。
テサロニケのユダヤ人たちはべレアまで来て人々を扇動しキリストの良いたよりに反対したため兄弟たちはシラスとテモテを残しパウロを船でアテネ逃します。
使徒 17:10-13
10 すぐさま,兄弟たちは夜のうちにパウロとシラスを共にベレアに送り出した。彼らは到着すると,ユダヤ人の会堂に入った。11 さて,[ここの人たち]はテサロニケの人たちより気持ちがおおらかであった。きわめて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ,それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べたのである。12 そのため,彼らのうちの多くの者が信者となり,また,評判の良いギリシャ婦人や男子のうちのかなりの者がそうなった。13 しかし,テサロニケのユダヤ人たちは,神の言葉がパウロによってベレアでも広められていることを知ると,民衆を駆り立てて騒がせようとしてそこにもやって来た。
アテネでの出来事
アテネは偶像に満ちる都市でした。そこはまたギリシャ哲学の中心地でもありました。
パウロはユダヤ人の会堂と市場でキリストの良いたよりを伝え始めます。
多人種融合国家のローマ帝国では、異なる神について広めることは帝国の治安の脅威になるとして禁じられていました。
やがて彼の活動はギリシャの哲学者たちの関心を引き、アレオパゴス(裁判所)で証言することになります。
そこでのパウロの証言は、クリスチャンの信仰の本質をハッキリと伝えるものでした。
伝えるべき良いたよりは複雑なものではありません。
使徒 17:22-31
22 さて,パウロはアレオパゴスの真ん中に立って,こう言った。
「アテネの皆さん,わたしは,あなた方がすべての事において,他の人たち以上に神々への恐れの念を厚く抱いておられる様子を見ました。23 例えば,歩きながら,あなた方の崇敬の対象となっているものを注意深く見ているうちに,わたしは,『知られていない神に』と刻み込まれた祭壇も見つけました。それで,あなた方が知らないで敬虔な専心を示しているもの,それをわたしはあなた方に広めているのです。24 世界とその中のすべてのものを造られた神,この方は実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,25 また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。ご自身がすべて[の人]に命と息とすべての物を与えておられるからです。26 そして,一人の[人]からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と[人々]の居住のための一定の限界とをお定めになりました。27 人々が神を求めるためであり,それは,彼らが[神]を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ[神]は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。28 わたしたちは[神]によって命を持ち,動き,存在しているからであり,あなた方の詩人のある者たちも,『そはわれらはまたその子孫なり』と言っているとおりです。
29 「したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののように思うべきではありません。30 確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。31 なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。
アレオパゴスでの証言の結果、
アレオパゴス裁判所の裁判官デオヌシオ、ダマリスという名の女またそのほかの者たちが信者となります。
パウロの証言から分かる以下の3点は、クリスチャンの信仰の土台です。
- 世界とその中のすべてのものを造られた神は、全人類の命の源であり人類の将来を気にかけておられる。
- 人の住む地を義をもって裁く日が定められてある。
- キリストの復活はそのことの保証である。
クリスチャンギリシャ語聖書のどこを探しても、三位一体の論議や終わりの年代計算などありません。それらは真理を隠すためのサタンの欺きの働きであり、クリスチャンの信仰と全く関係ありません。それらのインチキはクリスチャンが伝えるべき福音ではありません。
コリントでの収穫
アテネを出てパウロはコリントへ向かいます。そこで、イタリアから来たユダヤ人の夫婦アクラとプリスキラに会います。
パウロは安息日ごとにユダヤ人の会堂でキリストの良いたよりを宣べ伝えます。
やがてマケドニアに残したシラスとテモテがパウロに合流し、パウロはユダヤ人への宣教を強化します。
しかし、ユダヤ人のあからさまな反対のため、宣教の対象を諸国民へ変えることになります。
ユダヤ人の会堂に隣接して住むテテオ・ユスト、また会堂の主宰役員クリスポとその家族、コリント人の多くが信者となります。
イエスは幻でパウロに、コリントにはご自分の民が大勢いると告げます。
パウロはコリントに1年6ヶ月滞在して宣べ伝えます。
ユダヤ人たちは猛烈にパウロに反対しました。
使徒 18:1-22
1 こうした事の後,彼はアテネを去ってコリントに来た。2 そして,ポントス生まれの人で,クラウディウスがユダヤ人すべてにローマ退去を命じたために最近イタリアから来た,アクラという名のユダヤ人と,その妻プリスキラに会った。それで彼はそのふたりのもとに行き,3 職が同じだったのでその家に滞在し,こうして彼らは[共に]働いた。天幕作りをその職としていたのである。4 しかしながら,彼は安息日ごとに会堂で話をして,ユダヤ人とギリシャ人を説得するのであった。
5 さて,シラスとテモテが共にマケドニアから下って来ると,パウロはひたすらみ言葉のことに携わるようになり,イエスがキリストであることを証明するためにユダヤ人たちに証しをした。6 しかし,彼らが反対してあしざまに言いつづけた時,彼は自分の衣を振り払って,こう言った。「あなた方の血はあなた方自身の頭に帰するように。わたしは潔白です。今からは諸国の人たちのところに行きます」。7 こうして,彼はそこから移って,神の崇拝者であるテテオ・ユストという人の家に入った。その家は会堂に隣接していた。8 しかし,会堂の主宰役員クリスポが主の信者となり,その家の者たちも皆そうなった。そして,[み言葉を]聞くコリント人の多くが信じてバプテスマを受けるようになった。9 そのうえ,夜中に主が幻によってパウロにこう言われた。「恐れないで,語りつづけなさい。黙っていてはいけない。10 わたしはあなたと共におり,だれもあなたを襲って危害を加えたりはしないからである。この都市にはわたしの民が大勢いるのである」。11 こうして彼はそこに一年六か月腰をすえて滞在し,彼らの間で神の言葉を教えた。
12 さて,ガリオがアカイアの執政官代理だった時であるが,ユダヤ人たちはパウロに敵していっせいに立ち上がり,彼を裁きの座に引いて行って,13 「この者は法に逆らい,神を崇拝する点で人々を別の宗旨に導いている」と言った。14 しかし,パウロが口を開こうとした時,ガリオがユダヤ人たちに言った,「実際,それが何らかの不正もしくは罪悪となる邪悪な行為であれば,ユダヤ人たちよ,わたしは当然辛抱してあなた方を忍びもしよう。15 だが,それがことばや名前やあなた方の間の律法をめぐる論争であれば,あなた方が自分で処置しなさい。わたしはそうした事柄の審判者にはなりたくない」。16 そうして彼らを裁きの座から追い返した。17 すると彼らはこぞって会堂の主宰役員ソステネを捕らえ,裁きの座の前で打ちたたいた。しかしガリオはこうした事にいっさいかかり合おうとしなかった。
18 それでも,パウロはなおかなりの日数滞在し,その後,兄弟たちに別れを告げてシリアに向けて出帆した。プリスキラとアクラも彼と一緒であった。彼がケンクレアで髪の毛を短く刈っていたからであり,彼には誓約があったのである。19 こうして一行はエフェソスに着いたが,[パウロ]は彼らをそこに残し,自分は会堂の中に入ってユダヤ人たちと論じた。20 彼らはもっと長くとどまるようにとしきりに頼んだが,[パウロ]はそれに応じないで 21 別れを告げ,「神が望まれるなら,またあなた方のところに戻って来ます」と言った。こうして,彼はエフェソスから船出して 22 カエサレアに下った。そして,上って行って会衆にあいさつし,それからアンティオキアに下った。
コリントを去った後、エフェソス、カエサレア経由でシリアのアンティオキアに戻り、パウロの2回目の宣教旅行(西暦49-52年)が終了します。
第2回目の宣教旅行の特徴は、マケドニアでの活動と収穫です。その宣教はユダヤ人の敵意の中でなされました。
フィリピ | (ルデア、牢番とその家族が信者となる) |
テサロニケ | (ユダヤ人の反対) |
ベロア | (ユダヤ人の反対) |
アテネ | (アレオパゴスでの証言) |
コリント | (大勢の民が信者となる) |
結果から振り返ると、キリストの望みのままに宣教が導かれたことが分かります。
ギリシャ文明の中心地マケドニア地方で大勢の主の民が収穫されました。
キリスト教の伝道は、サタンの敵意の中で神の強力な力の働きを伴い神の霊により導かれた個人により公になされました。また大半の信者たちは自分の生活の中で神と、その救いの手立てであるキリストについて証しました。
それは、セールスマンのような戸別訪問方式ではありませんでした。
家から家のグループ伝道は聖書から立証できません。
エホバの証人のトレードマークとされる家から家の戸別伝道は、百科事典のセールスで戸別訪問をした経験のある「ものみの塔協会」の2代目の会長ジョセフ・F・ラザフォードが企画奨励した信者リクルートのためのキャンペーンです。ラザフォード本人は自ら音頭をとった戸別伝道をほとんどしませんでした。統治体の他のメンバーも同じです。
かってエホバの証人は、雑誌や文書を50円とか100円の寄付と述べて売っていました。
そのような取決めは企業の発想であり、クリスチャンのものではありません。
ものみの塔聖書冊子協会は、その始まりから宗教を利用した利益追求国際企業です。
クリスチャンはキリストの復活の証人であり、神と神の救いの手立てについて機会を見つけて聖書に基づいて語れる人たちです。
西暦1世紀の先例に倣った神の強力な力の働きを伴うクリスチャン宣教は未だ起きていません。
サタンの体制が野獣崇拝を推し進めるにつれて、公に信仰を表明する真のクリスチャンたちは敵意の的とされるでしょう。
西暦1世紀のような世界的な証しは、その局面で王国の子たちによってなされるでしょう。
➡ インチキ王国伝道
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