輸血

2015/08/19 0

JW 輸血

t f B! P L

輸血について書きます。

ものみの塔協会は輸血について規則を設け、それにより信者を裁くことまでしていますが、そのような権限は聖書から裏付けられません。

輸血を受けるかどうかは、個人の医療行為の選択の問題だと思います。

各自が輸血を含む医療行為を受け入れるかどうか決めるべきで、その決定は宗教教理により裁かれるものではないと思います。

まず血について学んでみましょう。

血の主要成分 いくつかの分画
血漿
(全血の 52-62%)
水 91.5%
たんぱく質 7%(アルブミン、グロブリン、フィブリノーゲン)
他の物質 1.5%(栄養、ホルモン、呼吸ガス、電解物質、ビタミン、消耗窒素)
血小板
(全血の 1%未満)
今のところ医療のための分画は分離されていません。
白血球
(全血の 1%未満)
インターフェロン、その他
赤血球
(全血の 38-48%)
ヘモグロビン33%
ヘミン2%、その他


科学技術の進歩は、細分化(fractionation)と呼ばれる方法で血の要素を特定したり、抽出することを可能にしました。

たんぱく質、アルブミン、フィブリノーゲン、また各種グロブリンなどの血の分画を収穫するために分画抽出行程において、大量の血液の貯蔵が必要となります。

もし、聖句を字句どおりに解釈し、規則を厳格に守る視点で血液分画の抽出過程をみるなら、それは既に違反行為となります。

聖書は、血は貯蔵せず土地に戻すことを要求しているからです。

レビ 17:13-14
13 「『だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者がいれば,その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。14 あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。

申命記 12:16
16 ただし,血を食べてはならない。地の上に,それを水のように注ぎ出すべきである。

申命記 15:23
23 ただしその血を食べてはならない。地の上に,それを水のように注ぎ出すべきである。

自己犠牲の精神について

血は魂を表しますよね。
では、隣人愛を表す高尚な方法はなんでしょうか。

それは、自分の魂を他の人を助けるために用いることではありませんか。

ヨハネ 15:13
13 友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません。

ヨハネ 6:53-55
53 そこでイエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなた方は自分のうちに命を持てません。54 わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。55 わたしの肉は真の食物であり,わたしの血は真の飲み物なのです。

イエスは、血で表される自分の魂を死にゆく人類の救出のために用いました。

それは、わたしたちに対するイエスの深い愛の表明ではありませんか。

イエスのように血を死からの救出のために用いることが愛のあることであるなら、親が我が子を緊急事態から救出するために血を用いる気持ちを理解できるのではありませんか。

緊急事態から命を救うために血を用いることは、道徳的また心情的に問題はないと思います。

ほとんどの輸血は、アルブミンやグロブリン、フィブリノーゲンのような血液分画を用いてなされます。

人々は、毒蛇に咬まれたとき、毒を中和するために血清を用います。また血液の分画をウィルスと戦うために、また出血を止めるためなど、さまざまな救命、延命用途のために用います。

とはいえ、輸血も他の医療処置と同じでリスクが全くないわけではありません。人為的なミスや汚染、不適合などのリスクが伴います。

ですから、人々は無輸血手術や代替療法を考えるかも知れません。輸血を含む医療行為は、個人的な選択、決定の問題です。必要な情報を得て自らの裁量で選択、決定を行うことができます。

そのような個人的な問題で宗教組織に裁かれる理由はないでしょう。

しかし、ものみの塔協会の問題は、医療目的における血の用い方についての組織の解釈に同調しない信者に宗教的な制限を課すことです。

ものみの塔協会の独自の解釈で信者を裁き制裁を課す権限を宗教組織ものみの塔聖書冊子協会は神から与えられているとは言えません。

彼らは、聖書に書かれていることを超えて信者の上に采配を振るっています。

ものみの塔協会は、信者の信仰の主人ではありません。

コリント第二 1:24
24 わたしたちがあなた方の信仰に対する主人であるというのではありません。わたしたちはあなた方の喜びのための同労者です。あなた方が立っているのは[自分の]信仰によるのです。

個人的な判断の問題の扱い方

ローマ 14:4-5, 10, 22
4 他の人の家僕を裁くとは,あなたはだれなのですか。その人が立つも倒れるも,それはその主人に対してのことなのです。実際,その人は立つようにされるでしょう。エホバはその人を立たせることができるからです。
5 ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい

10 それなのに,あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また,なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになるのです。

22 あなたの抱く信仰は,神のみ前で自分自身にしたがって抱きなさい。自らよしとしている事柄について自分を裁かないでよい人は幸いです。

ものみの塔の輸血の方針は何度か変更されています。
血液の分画が禁止されり許されたりしました。そのような指導は人々を混乱させますし、命にかかわる場合さえあります。

宗教組織は、命がかかわる医療処置の個人的な選択の問題において独善的な規則を設けるべきではないでしょう。

しかし、そうし続けているものみの塔協会は、他の人の命の責任を問われるでしょう。

輸血の問題についての、ものみの塔協会の取り組み方は規則を守る視点からであり、救命手段の視点からではありません。

また、彼らの推論には一貫性がありません。
彼らは血の分画の使用を許可し、その一方で、その分画を抽出する全血や血の主要成分の使用を禁止します。わずかの分画を得るためには大量の血液の貯蔵と処理が必要ですので、分画を認めるなら、そのための血の貯蔵も認めざる得ないでしょう。

ものみの塔協会は、現代の救命手段を認めながら、同時に独自の規則を信者に押し付け、それによって制裁を加えることをしています。

医療行為の選択の問題で、信者を裁く権限は宗教組織にはありません。

レイモンド・フランズのIn Search Of Christian Freedom" by Raymond Franz, from Appendix p719-p722からの部分引用です。
ものみの塔協会の自己矛盾は、血漿に関する方針によく例証されています。

1990年の10/22の「目ざめよ」誌で示されているように血漿は血液の55%の量を占めています。明らに、量に基づいて血漿はものみの塔の禁止されている血の主要成分リストに挙げられています。しかし、血漿の93%はただの水です。では、残りの約7%の成分は何でしょうか。主のなものはアルブミン、グロブリン(免疫グロブリンは肝要)、フィブリノーゲン、凝固因子(血友病製剤)です。これらは成分はまさに組織が信者に許可しているものです。血漿は禁止され、その主要な分画は、それが分離されて体内に入れば許可されるということです。

ある人はこれを次のように見ています。それはあたかも医師から、ハムとチーズのサンドイッチを食べることを止められた人が、サンドイッチとして食べるのではなく、サンドイッチをバラバラにして、パン、ハム、チーズを別々に食べるように告げられるようなものだ。

ルーカセイツ(Leukocytes)は、白血球と呼ばれていますが、禁止されています。実を言えば、白血球という言葉は、むしろ誤解を与えます。なぜなら、体内のほとんどのLeukocytesは血液体系の外に存在しています。人体は2-3kgのLeukocytesを含んでいます。そしてそのわずか約2-3%が血液体系の中にあります。残りの97-98%は、防衛(免疫)体系を形成し人体の細胞中に拡散しています。これは、臓器移植を受けると、輸血を受けるときよりも多くのLeukocytesを体内に取り込むことになります。

ものみの塔協会は現在臓器移植を容認していますので、他の血の分画を許可する一方で、このLeukocytesへの理不尽な抵抗は無意味です。ものみの塔の見解は、明らかに道徳的、道理にかなった、論理的な根拠に基づくものではなく、複雑な推論を用いてのみ主張できるものです。

血を主要成分と副成分に独断的に分けることも、十分な根拠に欠けています。組織は、明らかに血の55%の量を占めるほとんど水である血漿を禁じています。また、血のわずか1%の量の白血球(leukocytes)を血の主要成分として禁止しています。

その立場には、道徳的、または道理にかなった根拠の欠如が見られます。母乳は、同量の血液より多くの白血球(leukocytes)を含んでいます。血液は、1ミリ立法メートルあたり、4,000から11,000個の白血球(leukocytes)を含んでいますが、母親の初乳は、50,000個含んでいます。それは血液中の5-12倍も多いということです。

血友病製剤(8,9因子)この血液製剤が用いられるようになる前、1940年代の血友病患者の平均寿命は16.5年でした。今日では、この血に由来する製剤により、血友病患者は普通の寿命に達することができます。血友病患者がそれだけ長く生きるためには、100,000Lの血液からの抽出が必要です。血友病製剤そのものは、その血液の量のほんのわずかの部分にすぎませんが、その製剤を、ものみの塔がい言うように血の「わずかの量」がかかわる成分とみなせるでしょうか。

これらのわずかの量の血液分画の使用は、明らかに大量の、さらに大量の量の血の貯蔵を意味します。ものみの塔協会は、それらの血液分画の使用を認める決定をしていながら、他方で、聖書的に禁止されたものとしてすべての血の貯蔵に反対すると宣言しています。これが彼らが自己血の使用(自分の血液を一旦保存して手術の間、あるいは後に、本人の血液循環系へ戻す医療処置)を禁じる唯一の根拠です。明らかに彼らの立場は独断的で、一貫性に欠き、矛盾しています。


ものみの塔協会の態度は、道理を逸した規則をつくり、独断的な解釈で他の人を裁くパリサイ人と同じです。

マタイ 23:16-22
16 「盲目の案内人よ,あなた方は災いです! あなた方は,『神殿にかけて誓っても,それは何のことはない。しかし,神殿の金にかけて誓うなら,その者には務めがある』と言うのです。17 愚か者,また盲目の者たちよ! 金とその金を神聖にした神殿とでは,実際のところどちらが偉大なのですか。18 また,『祭壇にかけて誓っても,それは何のことはない。しかし,その上の供え物にかけて誓うなら,その者には務めがある』と[言います]。19 盲目の者たちよ! 供え物とその供え物を神聖にする祭壇とでは,実際のところどちらが偉大なのですか。20 それゆえ,祭壇にかけて誓う者は,それとその上のすべての物にかけて誓っているのです。21 そして,神殿にかけて誓う者は,それとそこに住んでおられる方にかけて誓っているのです。22 また,天にかけて誓う者は,神の座とそこに座しておられる方とにかけて誓っているのです。

ものみの塔協会はパリサイ人と同じで盲目の案内人です。そもそもどの宗教組織も、個人的な選択の問題で規則を設け強要し、それによって裁き、制裁を課す権限を神から与えられていません。

人は、自らの言い開きを宗教組織に対してではなく、命の源である神ご自信にすることになるでしょう。

人と神との間に宗教組織が入り込む余地はありません。

ローマ 14:12
12 それですから,わたしたちは各々,神に対して自分の言い開きをすることになるのです。

各クリスチャンは、救命処置として何を選ぶか自分で決めるべきです。

1950年代と60年代は全血輸血が一般的でしたが、今日ではほとんどの場合血液分画がそれぞれに応じて用いられています。

各自は、結果が良くても悪くても自らの選択の結果を受け入れる必要がありますが、宗教的な制裁は不要です。

聖書時代には、イスラエル以外で動物の血は飲み物として、あるいは宗教儀式のために用いられていました。人々は血液中の救命成分に関する進んだ知識を持っていませんでした。ですから、緊急事態の救命処置として血の成分を医療目的で用いることは、極めて新しい血の用い方といえます。

使徒 15:20の決定は、緊急事態のための救命処置として現代行われている血の医療上の用い方を想定していないでしょう。

使徒 15:19-20, 28-29
19 ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。

28 というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。29 すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。

使徒 21:25
25 諸国民の信者たちについては,偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血と絞め殺されたもの,また淫行から身を守っているべきであるとの決定を下して,使いの者を送ってあるのです」。

血の使用に関して彼らが思いに描いていたことは、血を食べり飲んだりする習慣や異教の宗教儀式での血の使用だったのではありませんか。

それは、緊急事態の人命救助のことを想定して語られてはいません。

輸血、または無輸血手術によって助かった人たちがいます。
輸血、または無輸血手術によって亡くなった人たちもいます。
輸血、または無輸血手術による後遺症に苦しんでいる人たちもいます。

現代の進歩した医療行為をどのように活用するかは各自の選択と決定の問題です。

「血を避けなさい」を念頭に各自は輸血がかかわる医療行為に関して自分で決めると良いと思います。

ものみの塔協会の間違いは、信仰の主人でもあるかのように独自の聖書解釈に基づき規則を作り、その規則を押し付け、それによって他の人を裁くことです。

どんな宗教組織も、また個人も他の人の信仰の主人であるかのように振舞う権限はありません。

わたしは、輸血のリスクを軽く見てはいません。心ある医師たちにより開発されている無輸血治療を高く評価しています。

また、それぞれ異なる条件や状況のもとで輸血を受け入れる人々を罪に定めることは間違いであると思います。

輸血の問題は神と当人との問題であり、ものみの塔協会のような宗教組織の出る幕はありません。

ローマ 14:4-5
4 他の人の家僕を裁くとは,あなたはだれなのですか。その人が立つも倒れるも,それはその主人に対してのことなのです。実際,その人は立つようにされるでしょう。エホバはその人を立たせることができるからです。

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プロフィール



1972年にバプテスマを受けてクリスチャンになりました。

その後、エホバの証人として宣教活動を40年ほど行い、長老のときに「ものみの塔協会」の方針と異なる立場をとったために長老を削除されました。

長年のエホバの証人としての人生は「ものみの塔協会」の崇拝の様式とキリストの教えとの不調和を経験することになり、「ものみの塔協会」の始まりからの歴史をインターネットを用いて調査し、この団体がロスチャイルド資本によるシオニズム運動の器として始まったこと、宗教組織を利用したロスチャイルド資本の国際投資企業であること、小児性愛者の不適切な扱い、預言や教理上の破綻などの腐った実を知りました。

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