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2024/03/04のyooさんのコメントから始まった聖書に関する記事です。
yooさんのブログ「JW完全論破ブログ」 の記事について書いたコメントをまとめました。
目次[非表示]
「新約聖書」とは手紙の寄せ集めで、霊感を受けた聖書ではないのか。
エホバの証人は、ヘブライ語聖書についてyooさんが書いていること理解しています。またクリスチャンギリシャ語聖書の聖典性も信じています。クリスチャンギリシャ語聖書の聖典性は、yooさんが書いているように背教したクリスチャン組織のカルタゴ会議で決定されたのではありません。ローマカトリック教会や、それから派生した他の組織宗教が聖書の聖典性を決定したのではありません。サタンが用いるそれらの国家宗教組織は、初期クリスチャンの間ですでに確立されていた聖典を、自らの権威の確立のために追認した(利用した)にすぎません。
また、背教のクリスチャン組織が顕在化する前の、使徒たちを含む初期クリスチャンたちは、神からの霊の賜物を与えられており、霊感のクリスチャンギリシャ語聖書として知られる手紙やキリストについての証の書物を、後代の王国の子たちのために備えました。それで、それらの霊感の手紙類は、yooさんが書いているような単なる「手紙の寄せ集め」ではありません。それは、ヘブライ語聖書と同じ神の霊感の書物であり、王国の子たちの信仰の土台であり、信じる者たちを導く神の力です。
初期クリスチャン会衆における神の霊の強力な働きについて補足します。
西暦33年のペンテコステの日に、神はご自分の霊を120人のキリストの弟子たちに注ぎクリスチャン会衆を発足させました。
その出来事、またそれに続く使徒たちの宣教の記録は、使徒たちの活動に書かれています。
それで、神の霊の働きを知りたいなら、使徒たちの活動を注意深くお読みください。
そうすれば、パウロやその他の使徒たちが書き残した手紙が霊感の書物であることが分かるでしょう。
西暦1世紀のクリスチャンたちを導いた神の霊は、1コリント 12:10に書いてあるように、ある人に「霊感のことばを識別する力」を与えました。 それで、初期クリスチャンの王国の子たちにより、クリスチャンギリシャ語聖書の聖典目録が確立され、当時のクリスチャン社会で流布され活用されていたことが分かります。
1コリント 12:4-11
4 さて,賜物はさまざまですが,霊は同じです。5 奉仕の務めはさまざまでも,主は同じです。6 働きはさまざまでも,すべての人の中であらゆる働きをされる神は同じです。7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。
また、バイブル (bible) という言葉の語源は、ギリシャ語のbiblos(ビブロス)の複数形のbiblia(ビブリア)です。 biblos(ビブロス)はパピルスという植物の茎の内皮でものを書く紙で、biblia(ビブリア)は、その小冊子をまとめて本の形にしたものです。
ヘブライ語聖書は、巻物に書かれて、ユダヤ人の会堂に保管され、人々は、会堂で聖書を読んだり、聞いたりしていました。
クリスチャン時代の手紙やキリストの活動の記録は、当初巻物に書かれていましたが、初期クリスチャンたちは、クリスチャンギリシャ語聖書の聖典を各自が写本して保持して活用したため、他の古代の写本と比べ物にならない程多くのクリスチャンギリシャ語聖書の聖典写本がつくられ、今日まで残っています。
また、初期クリスチャンたちは、クリスチャンギリシャ語聖書の聖典写本の携帯を望み、巻物の形から今日の本のような冊子本の形でギリシャ語聖書写本を残しています。
初期クリスチャンの中には「霊感のことばを識別する力」を与えれていた人たちがおり、その神からの力により、当時クリスチャンの間で流布していた手紙や証の書の中から、聖典目録がすでに確立され、クリスチャンたちの信仰の土台となり、今日まで続く本物のクリスチャン活動を導く力となっていました。
ですから、初期クリスチャン各自は冊子本の形で聖典を複写し所有し、当時の世界の隅々に広げることができ、その数の多さは他の古代写本の数をはるかに超えて残っており、今日でもその内容を読むことができます。
神は人類の所有権を悪魔に譲渡したのか。
神は人類の所有権を放棄してサタンに渡したという主張についてです。サタンの偽りにより、アダムとエバが罪に陥ったとき、神はアダムの家族を見捨てることはありませんでした。
神は天と地とその中の被造物全てに対する権威(所有権、支配権、その他なんであれ神に属する権威)を放棄なさっていません。そのようなことはあり得ません。罪を犯したアダムの家族(アダムも含めて全人類)は、神のものです。
サタンは、罪を犯したアダムの家族の所有者ではありません。
サタンは、嘘を用いて神のものを強奪しました。 神がだまされたのではなく、神のものである人がだまされ、また偽りに同調してサタンの奴隷となりました。 この出来事は、神が企画して生じたものではありません。
サタンも含めすべての被造物は神の権威の下に存在を許されています。 そして、「すべて自分がまくものを刈り取る」という神の掟の下で神の定めの時に裁きが臨みます。
サタンは、偽りと脅しで機能する自分の世をつくることを許されたに過ぎません。 いずれ、サタンは自らの行為の結果を刈り取ることになります。
神は、サタンにいかなる権威も与えていませんし、ご自分の権威を放棄してもいません。 サタンに渡されているものは、偽りと脅しで自分の世をつくる自由であり、それは神から与えられた権威、また罪を犯した人類に対する神が放棄した所有権ではありません。
サタンは、偽りと脅しで人類の世をつくりました。 サタンが持っている権威は、自分の世に対するインチキと脅しで作り上げた権威にすぎません。 サタンの世の権威は、神からの権威ではありません。 サタンの世に住むアダムの家族は、サタンの偽りと脅しの奴隷です。
人類の所有者である神は、西暦1世紀にキリストを用いてサタンの力を砕き、人々をサタンのインチキ権威から解放なさっています。 なぜなら、人類は神のものだからです。神は罪を犯した人類に対する所有権を放棄していません。
サタンの権威は、サタン自身がインチキと脅しで作り上げた自分の世に対するものです。 サタンの世はサタンの権威で機能しています。サタンは、望むものに自分が築いたインチキ権威を与えます。
サタンが、自分の世で築いた権威はサタンのものです。サタンに権威を築くことを神は許されたので、それらの権威はサタンに渡されていると言えます。 サタンは、自分の世の権威と栄光をイエスに提供しています。
ルカ 4:5-6
5 それで彼は[イエス]を連れて上り,またたく間に人の住む地のすべての王国を見せた。6 そして悪魔は言った,「この権威すべてとこれらの栄光をあなたに上げましょう。それはわたしに渡されているからです。だれでもわたしの望む者に,わたしはそれを与えるのです。
サタンが持つ、また提供できる世の権威や栄光は、神が与える権威や栄光ではありません。 サタンの世の権威や栄光は、偽り、脅し、貪欲、不公平、抑圧によって築かれるもので、多くの人々を虐げ、犠牲にします。 サタンの世の権威は被造物を高めるクズであり、サタンの世の栄光は、競争心や妬みによって作られたインチキ栄光でクズです。
そのようなクズをイエスは受け取りませんでした。
サタンは、不法に自分の世をつくりました。 神がそうする権威を与えたのでも、人類の所有権をサタンに譲渡したのでもありません。 キリストは、不法につくられたサタンの世を除去します。
ヨハネ第1 3:8
8 罪を行ないつづける者は悪魔から出ています。悪魔は初めから罪をおかしてきたからです。神の子が現わされたのはこのためです。すなわち,悪魔の業を打ち壊すためです。
サタンの権威は、自分の世に対するもので、世の支配者と呼ばれています。 サタンの権威は、イエスに対して何の力もありませんでした。
ヨハネ 14:30
30 わたしはもう,あなた方と多くは語らないでしょう。世の支配者が来ようとしているからです。そして,彼はわたしに対して何の力もありません。
サタンの権威は偽りと脅しに屈する者たちに対する権威にすぎません。 サタンの偽りと脅しはイエスには何の力もありませんでした。 なぜなら、イエスは真理を知っており、真理を愛し、真理のうちに神とつながって生きていたからです。
1ヨハネ 5:19 に書いてある「全世界は邪悪な者の配下にある」とはどういう意味でしょうか。
それは、全世界はサタンの偽りと脅しの下におかれているということです。 それが、地に対するサタンの権威であり、サタンの汚れた霊であるということです。
しかし、人がひとたび真理を知ったなら、サタンの権威は力を失います。
エフェソス 2:2
2 あなた方は,この世の事物の体制にしたがい,また空中の権威の支配者,不従順の子らのうちにいま働いている霊にしたがって,一時はそうした[罪]のうちを歩んでいました。
サタンの権威は、真理を知る人に対して力はありません。クリスチャン(王国の子たち)とはそのような人たちです。
神は、罪を犯した人類の世を放棄していません。 神は、ご自分の地上の子供たちに対する所有権をサタンに譲渡などしていません。 全人類は、神のものであり、キリストの犠牲により、すべての人は価を持って買い取られています。 その買取の価は、サタンに支払われたのではありません。 イエスの贖いの血は神に捧げられました。
アダムが罪に陥った時、神が救出を約束なさったのはなぜでしょうか。 それは、罪を犯したアダムとその家族は神のものだからです。 神は罪を犯したアダムの家族をサタンに放棄などしていません。ご自分の子として救出のために行動なさいました。
マタイ 12:11
11 [イエス]は彼らに言われた,「あなた方のうち,一匹の羊を持っていて,それが安息日に穴に落ち込んだ場合,それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか。12 どう考えても,人は羊よりずっと価値のあるものではありませんか。
たとえ話の羊の所有者が穴に落ちた自分の羊を引き出したように、神はご自分のものであるアダムの家族を罪の穴から引き出します。
聖書の神は人間に似ているか。
神と人についてです。yooさんは、「聖書の神は人間に似ている」と書いていますが、それは逆です。 人間が神に似ています。
それは、人が神の像に似せて造られたと聖書に書かれているとおりです。
では、神と人との違いは何でしょうか。 それは、神は始まりも終わりもない永遠の存在だということです。
永遠の存在とは何を意味しますか。 それは、神の高貴な神性は不変であるということです。 真実、公正、力、知恵、愛、憐み、美、その他何であれ神の性質は欠けることも崩れることも堕落することもありません。
命の始まりのある人の場合は、神のように変節することない存在になるポテンシャルが与えられています。 神のように変節することのない存在になるためには学ぶべきことがあります。
それは、永遠の存在である神の霊と調和して生きることを学ぶ必要があるということです。 それに失敗するなら、自らの内にある神の像を維持できず堕落して自滅するか、自分と他の者にとって有害な存在となり裁かれて命の恵みから取り除かれます。それがサタン、悪霊、人類に生じたことです。
神の霊に調和して生きることを学ぶ最初のステップは神のことばに従うことです。
神のことばへの一つ一つの従順は、神と共に生きることであり、そのように生きているなら神の霊に調和した存在になれます。こうして、命の始まりのある神の子たちは、神のように変節しない永遠の存在者となります。
霊者も人間も、神の像に似せて造られ、変節しないものになるポテンシャルをもって命を始めます。 そのポテンシャルを生かすかどうかは本人次第です。 神は、霊者や人を変節しないロボットとして造ったのではなく、神ご自身のように「自分が望むものになるもの」として造りました。 つまり、神のように「自分がなるものになる」像に人を造りました。 それで、神の霊と調和して変節しないものになるかどうかは、本人次第ということです。
アダムの場合、サタンの策略に巻き込まれ、神のことばを軽んじ変節しました。 変節したアダムの子孫の人類は、もはや、神の像を反映できません。 神の像から変節した人類は、神のようになるのではなく、神の像から逸脱したものとなりました。
そのような変節した人間に神が似ているという発想は聖書も神も知らない人の発想です。
神のように変節しない永遠の存在になりたいなら、神のことばを侮らないで、そのすべてにおいて神に従うものとなる必要があります。
神と自分を比較して考えれば、自分がいかに神の像から逸脱しているかが分かるでしょう。 人間は神の像に似せて造られていますので神的ですが、アダムの子孫の現状は、「聖書の神は人間に似ている」などとは言えません。
神の怒り、悲しみ、親切、憐み、慈しみ、妬み、喜び、辛抱、忍耐、侮り、嘲り、その他の感情は人間も持っていますので神の感情を推測できますが、その深さや質において計り知れず人間の感情と比べものにならないでしょう。
人間の限られた、また偏った思いや感情によって全能者を評価したり侮ることはできません。 神は天と地とそのなかのすべてのものの造り主です。 その力と知恵、理解力において人間とは比較になりません。
聖書の神は、神から見てバッタのような人間には似ていません。 この方は、全知全能の全能者であり、この方に達成しえないことはありません。
全地全能の神について軽率に語るなら、それはその人の恥となると思います。
イザヤ 40:20-23
20 あなた方は知らないのか。あなた方は聞かないのか。それは発端からあなた方に告げられなかったか。あなた方は地の基[の時]から理解力を働かせなかったのか。22 地の円の上に住む方がおられ,[地]に住む者たちは,ばったのようである。その方は天を目の細かい薄織りのように張り伸ばしておられ,それをその中に住むための天幕のように広げ,23 高官たちを無に帰しておられ,地の裁き人たちをも実在しないもののようにされた。
ヨブ記 37:14-16
14 ヨブよ,ぜひこのことに耳を向けるように。
立ち止まって,神のくすしいみ業にあなたが注意深いことを示せ。
15 あなたは知っているか。神がそれらに取り決めを課したときのことを。
また,その雲の光を照らさせたときのことを。
16 あなたは雲の釣り合いを保つことについて知っているか。
知識の全き方のくすしいみ業を。
ヨブ記 38:1-5
1 そこでエホバは風あらしの中からヨブに答えて言われた,
2 「計り事を暗くしているこの人はだれか。
知識がないのに言葉によって。
3 どうか,強健な人のように,あなたの腰に帯を締めるように。
わたしはあなたに尋ねてみたい。あなたはわたしに知らせよ。
4 わたしが地の基を置いたとき,あなたはどこにいたのか。
[わたしに]告げよ。もしあなたが確かに悟りを知っているのなら。
5 だれがその度量衡を定めたのか。もしあなたが知っているのなら。
あるいは,だれが測り綱をその上に張り伸ばしたのか。
ヨブ記 40:1-5
1 そしてエホバはさらにヨブに答えて言われた,
2 「とがめだてする者が全能者と争おうとするのか。
神を戒める者がこれに答えよ」。
ヨブ記 42:1-6
1 そこでヨブはエホバに答えて言った,
2 「私はあなたがすべてのことをなし得ることを知りました。
あなたには達成し得ない考えはないことを。
3 『知識がないのに計り事を暗くしているこの人はだれか』。
それゆえ,私は語りましたが,理解していませんでした。
私の知らない,私にとって余りにもくすしいことを。
4 『どうか,聞くように。そうすれば,わたしが話すであろう。
わたしはあなたに尋ねるので,あなたはわたしに知らせよ』。
5 私はあなたのことをうわさで聞いていましたが,
今は,私のこの目があなたを確かに見ております。
6 それゆえに,私は撤回し,
塵と灰の中でまさしく悔い改めます」。
イザヤ 55:8-11
8 「あなた方の考えはわたしの考えではなく,わたしの道はあなた方の道ではないからである」と,エホバはお告げになる。9 「天が地より高いように,わたしの道はあなたの道より高く,わたしの考えはあなたの考えより[高い]からである。10 降り注ぐ雨,また雪は,天から下り,実際に地にしみ込み,ものを生じさせ,芽を出させ,そして,種が種をまく者に,パンがそれを食べる者に実際に与えられなければ,その場所に帰らない。11 わたしの口から出て行くわたしの言葉も,それと全く同じようになる。それは成果を収めずにわたしのもとに帰って来ることはない。それは必ずわたしの喜びとしたことを行ない,わたしがそれを送り出したことに関して確かな成功を収める。
全知全能の神は、自由意思を持つ者たちの堕落が生じても、ご自分の考えを達成することができます。 自由意思は責任を伴い、責任は裁きを招き、すべてのものは「自分のまくものを刈り取る」ことになります。 サタンや悪霊の堕落、アダムの失敗は、神の目的の達成を妨げることはできません。 サタン、悪霊、アダムがもたらした障害は西暦1世紀にイエスによって取り除かれました。 全地は、神の意図したとおり、アダムの家族の永遠の住みかとなります。
この「救いの知らせ」が聖書のテーマです。
祭司職は神と悪魔との抗争の調停役か。
祭司は、神を代表して人々に神のことばを伝えました。これは祭司職が神の道の教育職であることを意味します。現に、古代イスラエルにおいて、祭司は神の律法の教育係でした。祭司はまた、人を代表して神に人々の罪の許しを求めました。これは祭司職が人々のためのとりなし役であることを意味します。
モーセの律法が与えられる前、アダム、ノア、アブラハムなどの時代の神の民は、家族の頭が祭司の役割を担っていました。
ですから、祭司職の主要な仕事は、神の道の教育と人々の罪のとりなしです。 それには、病気の癒しや裁きなども付随します。
yooさんは「祭司職は神と悪魔との抗争の調停役」と書いていますが、 それは聖書から立証できません。
なぜなら、神は調停人など必要としませんし、神とサタンの抗争など存在しないからです。
まず、神ご自身が立法者で裁き主なので調停人は不要です。 だれでも、神によって裁かれます。
ヤコブ 4:12
12 立法者また裁き主である方はひとり,それは救うことも滅ぼすこともできる方です。
また、神とサタンとの間に抗争は存在しません。 サタンは犯罪者で神から裁かれ処刑されます。
アダムが罪に陥った時、神は関係者たち(蛇、エバ、アダム)に刑を宣告しました。 それで、罪を犯した者たちはすでに神から裁かれています。 あとは、処刑の執行を待つだけです。 サタンも悪霊たちも、アダムの家族も刑執行まで留置されているに過ぎません。
創世記 3:15
15 そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼(女の胤)はお前(蛇)の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。
蛇とその胤は頭を砕かれることになっています。 つまり、サタンと悪霊たち、サタンに同調するアダムの子孫たちへの刑の宣告は滅びです。
犯罪者たちはすでに裁かれて、刑執行まで留置されています。
2ペテロ 2:4
4 まさに神が,罪をおかしたみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密な闇の坑に引き渡された
2ペテロ 3:7
7 しかし,その同じみ言葉によって,今ある天と地は火のために蓄え置かれており,不敬虔な人々の裁きと滅びの日まで留め置かれているのです。
刑執行までの留置期間は、それぞれが、言い逃れのできない「腐った実(悪の証拠)」を生み出す時となります。
天と地のすべての神の子たちは、堕落の結果を見て、人間の場合は実際に経験して、神の正しさを学ぶことになります。
最初から終わりを知る神にとって、そのような腐った実を生み出す時間など必要ではありませんが、時間と空間に支配されている神の子たちにとってそれは必要でした。それで、神は被造物の限界に合わせてことを進めています。
サタンと悪霊たちには救いはありませんが、サタンの策略の犠牲となったアダムの家族には救いの希望が差し伸べられています。
サタンと悪霊たちは、生ける神からの刑の執行に恐れおののいています。
マタイ 8:28-29
28 [イエス]が向こう側に着いて,ガダラ人の地方に入ると,悪霊に取りつかれた二人の男が記念の墓の間から出て来て彼に会ったが,[この二人は]ことのほか狂暴であったので,だれもその道を行ってそばを通る勇気がなかった。29 ところが,見よ,彼らが絶叫してこう言った。「神の子よ,わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか。わたしたちを責め苦に遭わせようとして,定められた時よりも前にここに来たのですか」。
ヤコブ 2:19
19 あなたは,ただひとりの神がおられることを信じているというのですね。なるほどそれはりっぱです。ですが,悪霊たちも信じておののいているのです。
アダムの子どもたちには救いの希望が差し伸べられているので悔い改めが宣べ伝えられています。
使徒 17:30-31
30 確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。31 なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。
マタイ 16:27
27 人の子は,自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており,その時,各々にその振る舞いに応じて返報するのです。
祭司の王国について
神がアブラハムからイスラエル国民をつくり、祭司の王国の約束を与えた目的は、約束の女の胤による祭司の王国をつくるためです。祭司の王国は、アダムの家族を罪から救出し、犯罪者サタンの世を滅ぼし、神が当初意図しておられた世界を地上につくるために神から権威を与えられた取り決めです。
アブラハムの胤の主要な方はイエス・キリストであり、イエスに従う王国の子たちが副次的な胤としてキリストとともに祭司の王国の成員となります。
アブラハムの生来の子孫のイスラエル人たちは、他の民族と同じ罪人アダムの子孫なので、不信仰に陥り祭司の王国を形成するのに必要な数の王国の子たちを生み出すことができませんでした。
神への信仰は、血肉によって生じるものではありません。 どの民族も血肉のつながりによって真の信仰をもつ王国の子たちの祭司の王国の成員の全員を生み出すことはできません。
神は、その点も承知しており、サタンの影響下にある罪人イスラエルに再三にわたり警告、導きを与えておられます。
西暦1世紀に主要な胤イエス・キリストがイスラエル国民の間で「祭司の王国」の活動を開始し、アブラハムの生来の子孫であるイスラエル人の中から王国の子となる信仰のある人々を集め出されました。ですから、祭司の王国はメシアの王国であり、天の王国、神の王国とも呼ばれています。
イエス・キリストの罪のない死により、サタンの処刑は確定し、王国の子たちは諸国民からも集められるようになります。それ以来、今日に至るまで、キリスト教は全地に宣べ伝えられ本当の信仰をもつ王国の子たちがあらゆる民族、民、言語の人々から集められてきました。
本物のクリスチャンは、王国の子たちであり、キリストと共に祭司の王国の成員となり、サタンの業を打ち砕き、アダムの家族の回復の仕事にあずかります。
➡ アダムとエバについて学んでください。
➡ 「王国の子たち」について学んでください。
付録
人類に対する神の積極的な関心
■ 神は、善良なマンション管理人のように地の住人に対する責任を誠実に、つまり積極的に、怠けることなく果たしておられます。
神は人類にご自分を明らかにされていますが、サタンの世の騙されている人々は、それを意識しません。
神は、人類に無関心ではありません。地の創造の始めから今に至るまで変わらず全地を世話なさっています。
創造の第7日は神の安息日と言われていますが、それは創造の業についてであり、神は、アダムの家族のために働き続けています。
ヨハネ 5:17
17 しかし[イエス]は彼らにこう答えられた。「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」。
使徒14:17
17 とはいえ,ご自分は善いことを行なって,あなた方に天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなた方の心を存分に満たされたのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません」。
ローマ 1:19-20
19 神について知りうる事柄は彼らの間で明らかだからであり,神がそれを明らかにされたのです。20 というのは,[神]の見えない[特質],すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。
サタンの世が神の地所を壊しているのに、それを神のせいだとは言えません。
神が悪を放任しているので、神は積極的に人類の世に関与していないとは言えません。
神は、地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定めの時をお持ちです。
啓示 11:17-18
17 こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能者なるエホバ神,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り,王として支配を始められたからです。18 しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたのみ名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にも[その]報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定められた時が[到来しました]」。
神はやがてサタンの世を終わらせる行動を起こされます。 サタンの世の邪悪な住民たちが地を荒廃させていますが、それでも普通の人々が地で快適に暮らせるように神は管理者として誠実にご自分の責任を果たしておられます。
邪悪な住民に対しての神の行動がまだ先であるという理由で、神は無関心とか、無能とか、積極的でないとか、などと言えません。
2ペテロ 3:9
9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。
滅びに定められた世に対し神の辛抱が働いているということは、神の積極的な関与を意味しています。 何かを辛抱している時、それに無関心ではいられません。
悔い改める一人の罪人の故に天において喜びがあると言われています。 それは、救いを必要としている人類の世に対する天の関心の高さを表しています。
ルカ 15:7,10
7 あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,悔い改めの必要のない九十九人の義人について以上の喜びが天にあるのです。
10 あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,神のみ使いたちの間に喜びがわき起こるのです」。
命は神からのものですし、命を支えるものもすべて神からいただいています。 加えて、将来の救いの希望も与えられています。 信仰のある人は、これらの事実を神の積極的な関与と見ます。
世が悪いのは神の積極的な関与がないからではありません。
神はご自分の責任を積極的に、また誠意をもって果たされています。
アパートが荒れているのは、管理人のせいではなく、住人が邪悪だからです。
やがて、邪悪な者たちに対して行動を起こされるでしょう。
偽りと脅しでつくられたサタンの世は邪悪であり、騙されている多くの人々は、サタンの世(闇)を愛しています。
ヨハネ 3:19-21
19 さて,裁きの根拠はこれです。すなわち,光が世に来ているのに,人々が光よりむしろ闇を愛したことです。その業が邪悪であったからです。20 いとうべき事柄を習わしにする者は,光を憎んで,光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。21 しかし,真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします」。
善良なマンション管理人は、地を荒廃させている邪悪な住民を取り除かれます。
その仕事は、神にしかできません。
■ 神の裁きについて
イエスは神の裁きの刑執行人なので、神が裁きを子にゆだねたという表現と矛盾しません。
イエスは「自分が聞くとおりに裁く」とも述べています。
ヨハネ 5:30
30 わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を求めるからです。
サタンは神にとって脅威ではない。
■ サタン、悪霊、人の悪は神の脅威とはなりません。サタン、悪霊、アダムの子たちは、神の像につくられた、神の子たちでしたが、神の霊や神のことばを侮り、神から離れ犯罪者となりました。
自分の愛する子たちが、罪を犯し悪に変質することは、神にとって心痛となりますが、被造物の悪は神に危害をもたらすことはありません。
神の心痛は、神を狼狽させたり、おびえさせることはありません。
被造物の悪は、神にとって脅威とはなりません。
神の心痛と脅威は無関係です。 自分の愛する子供の堕落は心痛となるでしょうが、そのせいで神がおびえる(動揺する)ことなどありません。
だれでも、自ら悪を行うことによって、神の愛のうちにとどまらない者は、神の子ではなくなります。
申命記 32:4-6
4 岩なる方,そのみ業は完全,
そのすべての道は公正である。
忠実の神,不正なところは少しもない。
義であり,廉直であられる。
5 彼らは自ら滅びとなることを行なった。
彼らはその子供ではない。その欠陥は彼ら自らのもの。
曲がってねじけた世代よ!
6 エホバに対してあなた方はこのように行なってゆくのか。
愚鈍で知恵のない民よ。
それはあなたを生み出した父,
あなたを造り,あなたに安定を与えた方ではないか。
人の善は、当人と他の者を益するのであって、それを神は喜びますが、それは神に何の利益も与えません。 人の悪は、当人と他の者を害するもので、それは、神の心痛となりますが、神を害することはありません。
被造物は、すべてのものの根源者に利益や危害を与えることはできません。 だれも、神を買収できませんし、神を窮地に至らせることもできません。 サタン、悪霊、アダムの悪は神の脅威とはなりません。
すべては、まくものをを刈り取らされることになります。
ガラテア 6:7
7 惑わされてはなりません。神は侮られるような方ではありません。何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。
ヨブ記 35:6-8
6 たとえあなたが実際に罪をおかしても,[神]に対して何を成し遂げられよう。
また[たとえ]あなたの背きの罪が実際に増えても,[神]に何を行なえるだろう。
7 たとえあなたが実際に正しくても,[神]に何を与えられよう。
あるいは,[神]はあなたの手から何を受けられようか。
8 あなたの邪悪はあなたのような人に対するもの,
あなたの義は地の人の子に対するものであろう。
箴言 9:12
12 あなたが賢くなったのなら,それは自分のために賢くなったのである。あなたがあざけったのなら,あなたが,ただあなただけが[それを]負うことになる。
結論
■ 信仰について信仰は聞くことから生じます。 聖書にそう書いてあります。
ローマ 10:17
17 ですから,信仰は聞く事柄から生じるのです。一方,
聞く事柄はキリストについての言葉によるのです。
キリストは、神を父と呼び、神は自分より偉大ですと言っています。 キリストは神を崇拝しています。 崇拝は、神だけがに示される最高の敬意です。 つまり、敬意の極致が崇拝です。
敬意は敬意の対象を過小評価したり、侮ることはありません。
それで、組織宗教の指導者や聖書学者、その他の専門家と呼ばれる人が書く、あるいは話す、神に関する評価が全能者に対して示されるべき最高度の敬意を少しでも低めるものなら、それはその人が聖書も神も知らないことを表しています。
そのような人の解説は、神の崇拝において何の益にもならないでしょう。 その種の聖書解説本を読むより、敬意をこめて、聖書を読み、神についての理解を神に求める方が神との関係を改善し深められます。
クリスチャンギリシャ語聖書を含め、聖書全体は神の霊感の書物です。
2テモテ 3:14-17
14 しかしあなたは,自分が学びまた確信した事柄に引き続きとどまっていなさい。あなたは,それをどのような人たちから学んだかということ,15 また,幼い時から聖なる書物に親しんできたことを知っているのです。その[聖なる書物]はあなたを賢くし,キリスト・イエスに関する信仰によって救いに至らせることができます。16 聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。17 それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。
2テモテの手紙は、西暦65年に、ローマ皇帝ネロにより再び囚人となった使徒パウロが、自分の死期の直前にテモテに書き送った手紙です。そのころまでに、クリスチャンギリシャ語聖書の目録は、西暦96-98年に書かれたヨハネの啓示とヨハネよるその他の手紙と福音書を残してほぼ完成しており、霊感の書物として当時の王国の子たちの活動を導いていました。
そのことを考えると、パウロがここで言及している「聖なる書物」は単にヘブライ語聖書のことではないことが分かります。 聖書全体は、クリスチャンギリシャ語聖書とヘブライ語聖書の全体のことです。
そして、聖書全体は神の霊感を受けており、神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるために備えられたと書かれています。
ですから、王国の子たちは聖書を唯一の導きとして、天の父を崇拝します。
それは、王国の子たちの主、イエス・キリストと同じです。
10 件のコメント:
↑の補足をしますと、「背教者」と言われる人たちにありがちなのが、自分の非聖書的な生き方を正当化するためにものみの塔の間違いとか身内の自死とか不幸話を引き合いに出すことが多々あります。ものみの塔に所属するかしないかより良心的に聖書で非とされることをしてないか、それは各自が死後の裁きの日に問われることになるでしょうから、ものみの塔の間違いを引き合いに出しても無意味なこともあるでしょう。エホバの証人に殺されたとか言いながらグルメツイートしまくってるのもありますが、真剣に悩んでるならそんなインスタントラーメンみたいなTwitter140文字で言いたい放題して晒すことはやはりないと言えるでしょう。
でもskさんみたいに冷静に間違いを丁寧に一つ一つ指摘してかつ自分自身がクリスチャンとして生活しているケースは有意義な証になります。大抵のアンチjwが勘違いしがちなのがskさんのブログを引用して「聖書が嘘だから罪を犯しても安心して。」みたいに思うようですが、ものみの塔を脱退した後に不義を慣わしにするべきとはどこにも書いてないです。大抵のjwアンチは親が殺されたとか色々な不幸話を引き合いに出して故人すら利用して安売りし周りに媚を売ったりしますが、自分自身が聖書で非とされることを慣わしにしていないかを自問自答するといいのでしょう。それをしながらものみの塔の間違いを指摘するなら死後の裁きはクリアできると思いますが、自分自身が怨念情欲殺意にまみれた状態で色々ものみの塔が間違いだーだから私は○○するーとか言っても親族の不幸話とは別でやはり邪悪さが正当化されることは無いでしょう。エホバ親死んだ○○は罪なのとか言ったりしてますが、何が罪かは各自で聖書を読んで決めると良いです。ものみの塔の間違い探しをしても自分の邪悪さが正当化されることにはならないと見越してるといいです。ものみの塔は「死後全くお咎めなし」とか言いますが、あると見越してた方が良いです。「滅んでもいいんだよ」とかヤンキーみたいにおらついて囲いを増やして一緒にものみの塔叩きをしても洗脳されたjwには届かないし意味ないです。寧ろ自分自身の罪が増えてゲヘナである程度の期間(アイオーンつまり未定のスパン)悪魔と堕天使と悪霊と同等の懲罰を受けると思った方が良いです。普通の人はこの悪魔と使いのために用意された火に入ることはないですが、知りながら罪を犯しかつ周りへ不義を慣わしにするように吹聴し「滅んでもいいんだよ」とか言ってると中々まずいです。「聖書なんて嘘だよ」とか言ってますが、嘘と思いたい心理状態になってるだけで都合の悪い耳が痛い話や事実が嘘にはならないです。
ここで、「ものみの塔が間違いだから罪を犯してもいいよ」という返答を期待される元jwの方が多いのですが、そんなこと言えばこちらが神から偽預言者として裁かれるし、一応良心を清く保つためには「○○したらいいよ」とか大々的に言えないですね。14日派主義エイレナイオスブログさんとかめちゃくちゃ何か裁きへの恐れを抱える人たちが好む内容になっておりまして、そのタイプの人が集うようになりがちなんですが、言い分としては「聖霊の冒涜は終末の聖徒に逆らうことだけでそれ以外は全部許される」とか言いきっている内容になります。元エホバの証人はこれを聞いて安堵感を覚えるようですが、聖霊の冒涜は今の時代パリサイ人より有利に聖書をいつでも調べて学べる環境下にあり善悪を十分判断できる状態で意図的に罪を犯し尚且つ周囲を不義へ誘い込むようなことをしていると非常に危ないことになると思います。でも14日派主義とかヨベルの角笛さんとかは「今は全ての罪が赦される。許されないのは終末の聖徒への反逆のみ。いや、反逆してもなお最後に命乞いするだけで救済される。美しきかな芸術的解釈。」みたいに言うわけですが、全く根拠が薄く何の霊に操られてこのような理論破綻した教えを説くのか慎重になられるといいいかもしれません。21世紀のエイレナイオスさんの解釈を1世紀当時のエイレナイオスが目にしたら、反キリストとして退けられる可能性があるのでは。
とても気を付けるべきだなと最近考えさせられたのは、政治を見ても売電とトランプみたいな対立構造を見ると一見トランプが救世主に見えますけどどちらもイルミナティ側ですよね。宗教も同じです。エホバの証人VS反エホバ系牧師でもどちらも間違いのインチキみたいなことは十分あり得るわけで、誰かの言うことを鵜呑みにするより自分で判断する必要がある時代に我々は生きていると思います。
コメントする記事間違えましたが、このコメントした自分はyooさんではありません。福原亮はyooではありません
上のエホバに親殺された主張をする人たちは「ハルマゲドン来なくて良かったぁものみの塔が間違いだから聖書が嘘でよかったぁ」みたいな発言を何回もするんですが、ものみの塔が嘘でも聖書自体が外典も多くあるし一世紀当時作成された書簡と全く別なんでエホバの証人が偽物≒聖書が嘘とまで話が飛躍することはあり得ないんですよね。何でこの理屈が通用すると思ってるのか謎ですが、全く学業とかも疎かにされてきたようでして何か思考力を養う基礎的な勉学の訓練をしてなかったなのかもしれない故結論の導き方が狂うのかなと思えたりします。エホバの証人になった親が自殺した≒jw全員死ぬべきで敵みたいな何かのヤンキー不良映画みたいなノリ、クローズゼロみたいな鈴蘭とほうせん戦争なんぞ←なんでやねん!仇討ちのていで自分の殴りたい暴れたいヤンキー不良衝動正当化すんなや!みたいな義理人情篤い人徳重んじる系アピールしてて全く無関係な人と戦いたいチンピラキャラになるのも理解不能ですし、jwアンチも実際何が言いたいのか全く意味が分からないところも多いです。親が死んだんだ!仇討ちだ!ってtwitterにいてる親の自殺に全く無関係な洗脳された現役jwに殺意宿して絡んでも親の仇討ちになってないし、twitterという公共の場における謎のスケバン不良キャラでしかなくなるんですよね。本当に問題に感じるなら経緯をブログなりにまとめるくらいはするかと。クローズみたいな誰のための何の戦いなのか意味が不明慮過ぎる。Twitterでのエホバ親自殺アピールも何のためなのか意味がやはりつかめないことが多々ある。
そして、そもそも親を愛するが故の発言と言うより、裁きの日への恐れが主な関心ごとでそこを回避するべく色々な身内の不幸話を引き合いに出してるだけな印象。その割に「親子関係破壊された愛されたかったんだ。エホバ憎し。」と嘆くわけですが、そんな親の死すら引き合いに出すくらいなタイプはやはり普通の愛情を誰かと育むことが難しいケースが多く、いわば何かの人格障害的な要素が強い可能性もあるゆえにリアルでは誰からも距離一線置かれるため、Twitterで恨めしや貞子ちゃんキャラで延々周りの死とか不幸話を引き合いに出しつつ何でも自分の恨み殺意罪悪感妬みを正当化するための手段にしちゃうようになって、どんどん毒されていくようになるんですよね。愛されたいなら愛されキャラみたいにならないと無理だし、承認欲求自己顕示欲嫉妬殺意情欲怨念まみれの人からはいくら親がエホバの証人になって自死したとはいえ、まともな男性はそのやばい愛着障害的な人格障害あるあるなアピールを見抜き距離を置くことが多いでしょう。でもそこは自覚できないせいか延々被害者アピールしてそれが通用すると思い込んでるっぽいですし、それアピールして周りを囲う人達も味方のフリしてるけど実際は裁きへの恐怖心からなのか出来るだけ群れて安心感を得ようとしてるだけなので、互いに利用しあってるだけかと。
聖書が嘘だぁものみの塔がぁとかの前に無関係な人を恨んだりするヤンキー版貞子キャラを治すべきみたいな人が多いんですよね。もはや聖書とかものみの塔とかも関係ないです。ヤンキーの唯一の良さって根に持たないったところですよね。根に持つヤンキー女ってもう年取ると山姥でしか無くなるし怖すぎます。
聖書とかものみの塔関係無く恨みやすい執念深い陰湿な根に持ちやすい愛着障害強めの人格障害系の方がアンチエホバに多く散見されまして、しかも裁きの日来るかな来ないかもあれやっぱり怖いな違うものみの塔が嘘だから!親自殺したから的な思考がぐるぐる回ってるハルマゲドン恐怖症みたいになってるリアル社会で誰も理解できない特殊なケースになってます。
ちょっと語彙力なさ過ぎてまたきつくなりましたが、このような感じの人多くて「聖書ただの本。」とか言った次には「○○ニー罪なの?」とか質問したり、信じてないのに罪なのとか聞いたり何でやねんと心の中でツッコまざるを得ない発言が多過ぎてとてもじゃないけど理解不能な方が多いんですよね。悪習慣があるなら辞めればいいだけの話で、一々言わなくともわかるレベルの罪について誰かの指南を仰ぐ必要ないでしょう。自死した親に再会したいのか裁きの日への恐れが強すぎて自分の罪深い生活を正当化したいのか、要は愛か欲望のどちらを選ぶかの岐路に立たされ欲望を重視する人であることが露呈してるパターンが多くて兎に角裁きの日への恐れが強過ぎる方がエホバアンチには多くて、信じてないのになんでやねん!!親の死の問題はどこいってん!て思えるし、何が言いたいのか今一つな方が多いですね。
アンチエホバを観察すると、兎に角神の裁きの日を異様に恐れてるパターンが多い。普通の人に聖書の話をして裁きの日が来ることを伝えてもそこまで変な反応を示す人は多くない。バイデン対トランプと同じでエホバ対アンチエホバもサタンの分断工作でしかなさそう。どちらが正義ってわけでもなくってわけで実際の実情はこんなもんです。
さらによくあるあるな一例をまた書きたいと思いますが、ヨブ記です。ヨブ記でヨブの息子が可哀そうとか言って聖書の神はクズだと主張なさる方がかなり多いんですが、「せやねぇ」とか話を適当に合わせつつも内心「君ヨブではないよね。ヨブと神の間で解決したことやしあれはヨブが神を信頼したというより神がヨブを信頼しどんな不平不満を言っても最後祝福することに決めていたというハッピーエンドになってるし、偉大な故人のことはほっといたれよ。ヨブは納得しとるし。君ヨブの親族でも友達でもないやん。ヨブからすれば誰やねん君余計なおせっかいやとなるやろね。」と思うんですよね。ただこれ面と向かって言うと常にセンチメンタルを装い注意を惹こうとする人格障害ヒステリックなので恐らく発狂するだろうなとか思いつつあまり言うことはありません。
例えるなら、焼肉食べ放題してるおばさんが「殺された牛可哀そう神様残酷な世界を作ったね。」とか言ってるのと同じです。同情してるふりをしてセンチメンタルな感傷に浸っているわけですが、オーバーリアクションな演技性のあるあるな典型例。普通は「いや、焼肉食うてるんお前やん。感謝して食べろよ。牛可哀そうって食うとるお前が言うなよ。」って話で、酒飲みながらヨブ記読んで可哀そうって言っても嘘つけとしか思えないし。そういうオーバーリアクションな反応で自分と他人を欺いて生きてきたことを誰からも指摘されずに育ってきたのでしょう。しかも「聖書なんてただの本。創作話。」なら猶更ヨブの息子可哀そうとか怒んなよ、作り話やから起きてへんのやろってわけで。かぐや姫の話で怒るわけないやろってわけで。
アンチjwは基本的に自分の都合で善悪を反転させて故人すら自然と利用できるタイプが非常に多いです。前から色んな人が入れ違いながらこのような「センチメンタルで感傷に浸るフリをする」タイプが何故か多くて、何が言いたいのか今一つ分からない方が多く話を聞いていると学業を疎かにして高校すら行ってないケースがあります。学業は意外と大切な側面がありそれは正しく結論を導き出す思考力を養うからなんですよね。
「親をエホバの証人に殺された。私に味方しない人全員敵で死ね。」みたいなネジ飛んだ中学卒業したばかり程度の感受性のテロリスト山姥オークヤンキー貞子みたいになるんですけど、まず「いや親族の了解取ってないのに勝手に親の自死とか晒すなよ。そしてヤンキーみたいな謎の義務感で打倒エホバの証人掲げるならツイッターでどうでもええ個人のエホバの証人洗脳された現役攻撃しても意味ないし。メディア出演してる弁護士らみたいに頑張れよグルメツイートして親死んだとか酒のあてにするんやなくて。さらにTwitterにおる洗脳された組織崇拝者現役エホバはあんたの親が自殺なさったのと無関係やから親の仇討ちなってへんやん。しかもヨブが可哀そうってあんたクリスチャン大嫌い憎い言うとるのにヨブってクリスチャンやろうにあんた同情するなんて柄でもないのに。多分対面したら秒であんたヨブのこと憎くて〇したいって発狂するで。」みたいにもう酒のあてに身内の死とか故人引き合いに出せる卑劣さが凄すぎて思考回路が脳内空転してるからツッコみどころのオンパレードみたいな感じなんですよね。
ヨブとかその他諸々の聖書中の預言者とかペテロがキリストを苦しくて否定したくなる時あったとかそういうのはわかるんですけど、「焼肉貪りながら神様残酷、グルメツイート酒飲みしながらエホバ親死んだから聖書信じたクリスチャン死ね」はどの口が言うねんこれもかなりの人格障害的な要素盛沢山のサゲマンやなと思いながら何で毎回ワンパターンなんだろうかアンチエホバの証人の30半ば以降の女の人たちはって思えます。この手のタイプが毎回元エホバですアピールしては消えてまた同じのが来てまた消えてを繰り返します。悪霊が出たり入ったり繰り返しとるんかねと思うよね。
サゲマンとか言葉は悪いんですがこれ以外に思い当たる表現が無くて、パウロが述べたようにまともになり結婚し子供を産んで育てて忙しくなる方が、「焼肉酒食べ飲みしながら親死んだ聖書クリスチャン死ね、情欲嫉妬殺意怨念消えないなぁうぉーーあいつ現役エホバだ死ね」とか言うより全然いいんですよね。でも実際はこんなサゲマンみたいな人に責任感ある男性は近づかないし、結婚してもすぐ関係破綻するので一生情欲怨念恨み嫉妬殺意が解消されずに悪霊堕天使に憑りつかれてずっとTwitterで「聖書なんて嘘だよ!あれ?○○ニー罪?」とか「なんでやねん。信じてないなら思う存分しとけよ。まあ思うぞんぶんしとけよとか指示するとこっちが罪に誘導した偽預言者として有罪になるから心の中でしかツッコまんけどな」ってなるし、全く支離滅裂なある意味倫理観とか知的な判断力崩壊してるんかなってケースが多過ぎるんですよね。
毎回上に書き上げたパターンがヨブ記を読んでこんな感じの感想を言わはります。ヨブのことほっといたれよ。って単純に思うし満足してるからもういいんじゃね。それより自分が色々罪深い生活してるならそっち辞めた方がいいんじゃね。いつも未信者寄りの発想で言うけど、「来ない裁きなんてないよとか決めつけるのではなく、罪を辞めることは可能だからやめて生きることにかけた方がいいよ。リスクないし。」って思うけど、まあ言うことはありません。なぜなら発狂するからです。
それで、この手のレベルのタイプがエホバの証人アンチで親死んだとか言うわけで、親がエホバの証人で排斥された自死されたことは辛いですが、安易にそれ晒しつつ急に〇ナニー罪?とか酒飲みながらそんなこと言うのって辞めた方が良くね?それ焼肉食いながら神様残酷とか言うてるのと同じやでみたいな感じなんですよね。いや、それやったら焼肉食うなよと同じく、ヨブ記のヨブ可哀そうとか同情する優しい系になるんやったら誰彼構わず自分の意見に合わなかった人に殺意向ける恨めしやヤンキー貞子キャラと悪習慣ある罪あるならそれやめろよみたいな。
困ったことに普通に冷静になれば独身でも十分身近な幸せを感じながら他人の幸せを願えるようになるはずが、こういう嫉妬殺意怨念情欲まみれになってアンチエホバやってる人って結局ものみの塔が憎いってより聖書自体が提示する掟が憎いみたいになってまして、延々毒された言葉しか吐かなくなってサゲマン道極めてサゲマンの証人みたいになるんですよね。不幸になったのはエホバの証人のせいだとか言うんですけど、いや親の自殺引き合いに出すより、愛されキャラになればいいだけではと思うし。どこかで改心し思考を一新する必要があるんでしょうけど、それ指摘すると発狂して怨念の胞子飛ばしてくるので要注意。ここは色々な方が読むので、実際アンチエホバの特徴観察するとそのうち本性見えてきます。
yooさんがいう組織とかに対する認識でアンチjwが苦悩してるってよりかは、本人たちにある一種の悪というか罪といいますか、それが中々解決不可能な問題になってるのではないかなと思えるのがこちらの感想だったりします。売電とトランプどっちも悪であるようにエホバ対反エホバも分断工作なだけ。組織によって傷ついたとか親が自死したからと言って無関係な人を憎んでいい理由にならないし、悪習慣があってそれを正当化するために聖書を憎みそしてその矛先をクリスチャンにぶつけようとするのは違うよねというごく当たり前の話をしました。自分の悪事を正当化するためにヨブ記を引き合いに出し故人なるヨブすら利用できる創作話と見做すものすら使う幼稚な発想と卑劣さ。
対してクリスチャンは葛藤しながらも何度も読んで考えをその都度変えて新たな発見をしていくし、そもそも色々思うことはあってもまさかの他人を妬んだり殺意怨念情欲をむき出しにすることは無いでしょう。
聖書はただの本とか言うけどどう読んでもそうはならんぞ。実際西暦なんてキリストの生誕を基準にしてるし漢字も起源はそこにちなむし。
結論としてはものみの塔が間違いとか言う鼻くそは食べるべきでないみたいな当たり前の話を一兆回言っても自分の罪が正当化されることはないということです。◯◯ニーしながらtwitter越しで聖書だめだものみの塔が間違いだからとか言っても意味ないし恥ずかしいことです。そして身内の自死とか周りの不幸話を使って自分を被害者に映えさえても赤の他人を恨んで攻撃することを正当化できる理由にはなりません。
大切なことは自分自身が神とキリストの前で生き方において責任を持つということで、審判の日にものみの塔が死んだら滅んで無意識と言ってたので悪態ついてました親が自殺したから無関係な人に八つ当たりしましたとか言っても無駄なのです。そもそも亡くなった親の顔に泥を塗るような勝手に晒すようなことするのも異常過ぎます。ダビデ王と別で子々孫々が史上最低の王続きだったことを見ても、「親が自死して復活して私が滅ぶなんて理不尽だ復活なんてない」とか自分の都合が悪いから裁きの復活が無いことにはなりません。親と子は別々の魂(思い)であり、個別に裁かれることになります。ですから、子が滅べば義なる親の記憶からは消されることになるでしょうし、金持ちラザロの話を見てもアブラハムは子々孫々の滅びを嘆くのではなく「当然だ」と述べています。私は子供はいませんが、自分の子供が変節した場合滅ぶことは悲しいですが、やはり無関係な人を憎んだり妬んだりするようなものは身内であっても滅ぶだろうと覚悟はしています。実際に子供ではありませんが、そのような変節した身内はいることはいます。死んでしばらく無意識でも裁きのための復活をするとある聖書の記述は、ものみの塔が復活無いと言うから裁きを免れることだけ都合よく受け入れ復活無しと信じてたとか言い訳しても「食べ飲みしよう明日は死ぬのだから」という聖句があることを見ても、「死ぬのだから」と高を括ることが通用しないことを物語っています。栄光を受けることはないが、憐れみを与えられるための復活をするパターンと全く許しが与えられず悪魔と使い同等の裁きを受ける人達もいることがエノク書にあります。黙示録で責め苦を伴い昼も夜も休みがないとあるようにやはりものみの塔が述べるような無意識と侮らないほうがいいでしょう。しばらく無意識でも裁かれるためだけの復活をする人達が存在するわけです。勿論全員がそうではありませんが。
自死された親もまさか自分がTwitterなんかで晒されて被害者アピールやハルマゲドン恐怖症を克服するためや承認欲求アピールのために利用されてるとは思わないでしょう。欲望にまみれた不義な生活を正当化するために利用されることは望んでないし無関係な人に山姥ヤンキー貞子みたいに攻撃しても親の仇討ちになってないし自分は罪犯して地獄で裁かれるしでいいこと無しです。もし罪犯せどその都度素直に自分の間違いを認めることができればまだ救いようはあります。要は愛されキャラになるのが得策ということです。色々不幸話持ち出して自分の罪を正当化する良心が死んだ他人を利用することが自然とできる責任転嫁するサゲマンになるのではなく、愛されキャラとして自分が周りを幸せにすることを考えて生活すればいいんです。そうであれば私はエホバ親が自殺した悲劇のヒロインなのよ!エホバ潰すべきだわよ!今日の手料理これ!元キャバクラの元エホバ素敵女子です!◯◯ニー罪なの?とか言いながら酔っぱらい街宣することはないでしょう。そのような自分がされたことを常に考えて恨めしや街宣をしてもまともな人はどんどん離れるでしょう。実際にリアルの友達が多くてもそれを言って解決してないのでTwitterで恨めしや貞子キャラになって延々殺意をむき出しにしているのでしょう。
最近頂き女子とか話題になってまして殺人事件もありましたね。キャバクラ系の人が男性を騙し法外な金を貢がせ恨みを買ったようです。元キャバクラエホバでーす親が自死しました無関係なエホバを〇したいわよ!とか言ってもこれって要は、キャバクラみたいな演技性人格障害っぽい立ち振る舞いして男性に媚を売って囲いを作る癖が抜けておらず思考がそういう自分と他人を大きく偽り利用しても良心が全く機能しないようになってるのではないかなと見受けられます。だから親が自死したことも平気な顔で晒して自分の不義な生活を正当化できるのでしょうか。要は長年の邪悪な思考回路、自分と他人を偽り他人を利用しても良心が痛まない人格異常に形成されてしまい、「不幸なのはエホバの証人のせいだ!愛されたかったのに奪われた」みたいに他人のせいにしてしかも全く無関係な人を恨むようなヤンキー貞子になるのです。「愛されたかった愛されたい」という発言も身近な愛に気づけないか自分が愛を知らないクレクレ思考の人格異常あるあるなのかなと思ったりしますが、そんな他人を利用しても平気な女性は愛されにくくキャバクラみたいなところで不真面目なおっさんたちに欲望のはけ口にされるだけでしょうし、元々異常な承認欲求自己顕示欲嫉妬情欲怨念恨み嫉妬が強いキャラだと「愛されにくい」ってのが現実でしょうし、それはエホバの証人のせい現役エホバみっけ殺せとかではなく、まさに自分自身がサタンのように変節し屈折してる結果だと考えられます。
親の自死があっても親の自殺に無関係な現役エホバを攻撃していイイことにはなりません。鞭されたことも恨みつらみはあるでしょうが、エホバ以外でも皆さん大なり小なり色々あるものです。他人を思いやる利他的な思いから「エホバダメ自死遺族です」とか承認欲求アピールしているのか、ただ単にかまってちゃんが強すぎて自死を利用してるだけなのか、見抜く必要があります。何度も言いますが、愛されたかった!とか言うなら自分が他人を愛する愛されキャラになることは必須です。聖書の教える愛も偽善のないものであり、相手を心をから思いやり与える喜びを知ることから始まります。「エホバ親自死した。幸せな人見ると嫉妬する。食べ飲みする。あ現役エホバ見っけ殺せ。」ってヤンキー山姥貞子過ぎます。
皆それぞれ身内の自死問題を意外と抱えていたりするものです。知り合いでもそのような方はやはりいます。でも怨念嫉妬情欲殺意を抱えている方はいないですね。ですから、エホバの証人の身内の自死問題で怨念情欲嫉妬殺意にまみれてしまったのかは謎なのです。別のことでもそのようになっている可能性もあるし元々サタンのように情け知らず冷酷ナルシスト恨み嫉妬殺意情欲の塊みたいに自ら屈折して魂(思い)を乗っ取られることもあると思います。
自分がされたことに注意が向き過ぎる恨めしやヤンキー貞子になるのではなく、毎日の命に感謝して過ごして承認欲求情欲怨念を手放していくつまり改心することがキリスト教の福音の教えですから、それを実践することでしか自由は得られないでしょう。
これが、いわゆるエホバアンチのエホバの証人で自死したとか言って騒いでる人の特徴です。ハルマゲドン恐怖症みたいになって「物見の塔が間違いだわよ!復活も裁きもないわよ!親が自死したわよ!今日の素敵ご飯手料理これ!」と毎日叫ぶわけですが、別にないなら良くね?信じてる人たちはそんなヨタ話信じてる的な惨めな奴らってことやんね?ほっといたれよ。実際は復活と裁きあるね。信仰とか抜きにしても創造者が居て人類を一人一人裁くという音信にリアリティがないとは言えないけど。内心この人たちは裁きが不安で不安で仕方がないんだと思います。色々不幸話引き合いに出しますけど、とにかく裁きの日が怖いし親の自死も引き合いに出し親に顔向けできなくなるようなことも平気でする。そしてプロテスタントとかカトリックとかエホバの証人とか、一括りで善人か悪人か等決めつけられません。個人個人の心の奥底を見て裁くと書いてあるし、善悪二元論的な現役エホバ見っけ死ねみたいな短絡なヤンキーテロリスト思考を改心するべきと言えます。skさんみたいに冷静に長文で丁寧にjwの間違いを指摘して他人を思いやる気持ちで文章作成するのと、「今日のご飯これ―素敵女子降臨ーエホバ親自死したー○○ニー罪?」とか不謹慎な言動をして親の死を愚弄してるのとは真剣さが違います。
まぁ、今まで見てきた中でこういうヤンキー系の元キャバクラだか自称する人って「男たるものはこんなのだよー」とか風で世間を知った苦労してきた系を装うのですが、実際はあまり人間性はお世辞にも褒められたものではありません。なぜならホストやらキャバクラ系は演技性人格障害系を患っている可能性が高いからです。なので、こういう人がエホバ親自殺した!とか雄たけび挙げても「自分にできることはなかっただろうか。」という発想に至らず常に殺意や恨み情欲承認欲求を外に向けて発散する思考回路にしかならないわけです。エホバの証人はカルトなのよってそんなこたぁもう十分わかっています。世の中もカルトだしその中で善悪は自分で判断して良いものを取り入れていくしかありません。間違った世界で生きているからといって、そこにいるすべての人を敵とみなす必要はありません。愛を知らない故エホバ親自殺とか言って承認欲求自己顕示欲情欲嫉妬殺意を肯定してくれる都合の良い人がいたらいいな的な偽善的な愛を渇望する飢え乾く悪霊のように穢し言を延々言い続けるようになるのでしょう。
皆さんはエホバ被害を訴える人たちの本意を見抜いてください。なぜ彼らは延々創作話と見做すはずの聖書の裁きの音信に固執するのでしょうか。悪霊やサタンは信じておののいていると言います。なぜただの本とか創作話と見做すもにここまで固執するのでしょうか?ずばり堕天使や悪霊と同じく信じているからではないですかね。
別のケースを書きます。何十年も前の幼少の頃に好きになった男の人がエホバ信者でその初恋を取り返したいと嘆く初老の方もいます。結局少し付き合いはあっても初老の方はエホバ信者になるつもりもなく世間の他の人と付き合うことになり、やがてエホバの証人の男の子は長老にまでなり信者と結婚し大きなお子さんもおられます。
ここでこの初老の女性は何十年ぶりに急にエホバの証人に私の初恋を奪われたとか言って大袈裟に騒ぎ立てて周囲のエホバの証人アンチを扇動し、ものみの塔を潰すとかエホバの証人嫌いなプロテスタントに媚を売りエホバの証人叩きをしてイライラを発散してるようです。ここで、また別の自分のことを面白いと思い込んでるようなギャグセンスゼロのカルトの果てなんたらUberEatsの宅配先を晒すような仕事の個人情報晒す非常識な方が、幼少の頃の友達がエホバになったから取り返すとか言ってストーカーして見つけてnoteにエホバ教になったせいか避けられたとか言ってその非常識さをそこでも顕にしてます。実際は、幼少の頃より馴れ馴れしく無礼でストーカーぽい雰囲気をしてるから恐らくエホバ教信者から距離を取られたと思います。また何故か霊媒っぽい雰囲気してるなと思うと案の定そういう占いとか霊媒ホラーが大好きな様子。それを咎める聖書に対するアレルギー反応でアンチjwとなりかつ宗教二世の肩を持つことで肯定され承認欲求が満たされるので、大げさに騒ぎ立てているのでしょう。
このように、初恋やら友達を奪い返せとか言いながら自分の異常な束縛とか情欲や支配欲をむき出しにする非常識な方々がアンチエホバの証人としてtwitterに少なからずいます。yooさんが言うような組織の間違いとか関係ないです。承認欲求自己顕示欲情欲怨念束縛支配欲嫉妬にまみれた異常な人が自分の罪を暴く聖書に異常な執着を抱いてそれを否定するべく聖書を利用したカルトの物見の塔の間違いを見つけてあげつらうことで聖書の裁きを拒絶できた気になって安堵感を得ようとしてるわけです。実際は、ものみの塔と聖書は無関係だし本能的に彼ら自身聖書へのリアリティを感じ取って心の奥底で裁きの日への恐れを感じているわけで、それを否定するためにものみの塔カルトを引き合いに出しているだけです。
ものみの塔が間違いとかのわかりきった事実を何兆回言おうが自分自身が聖書で非とされる罪を慣わしにするならその過ちが正当化されることは無いでしょう。もう世間には十分ものみの塔がカルトである事実は知られています。そして上に書き上げたように少なくとも中々の非常識なストーカーっぽい執念深い方々が、アンチjwとしてTwitterで騒いでいることが見受けられます。利己的な恨み情欲を晴らすために互いを利用し合っているわけですが、yooさんの述べるような「組織の間違い」に対する認識を正すことで、これらの人の恨みが晴れるわけではないでしょう。何故なら「組織に対する認識」で悩むのではなく、そもそもが「聖書に対する嫌悪感、自分自身の悪感情」が大きな問題で個人的なもので解決が不可能だからです。自分が改心するしかありません。
目的は、上記に述べました聖書のシナリオに対する異常なほどの嫌悪感を正当化するためにものみの塔が叩かれているだけです。聖書は血なまぐさく良くも悪くも淡々と人類の軌跡を描くわけで、人間の罪が浮き彫りになるので、中々自分の悪を指摘された気持ちになり、苦悩することになるわけです。例えば「エホバ俺は好きにさせてもらうぞハルマゲドンまではな。」と祈ったとかの過去の体験を書いたり「○○ニーして罪とか無茶言うなよーとほほほ」みたいに急に醜態を嘆いたり気性のアップダウンが激しい方がおられます。ここでも何故か祈ったり罪意識を感じたりやはり人間に備わった神から与えられた良心が否が応でも機能するので、「人類を創造した神による裁き」がいつか来ることを本能的に感じ取ってしまい、聖書にリアリティを無意識レベルで感じ取り、ものみの塔の間違いをあげつらうことで聖書を否定できる気になり安心感が得られるのだと思います。
ですから根本的にアンチjwは、「聖書への嫌悪感」を「ものみの塔の間違いを指摘」することで「正当化」して、「裁きの日から逃れられる」ことを目的にいつも色々あれこれ弁明を考え続けているのだと思います。いつも未信者寄りで発言するようにしますが、「聖書が自分にとって都合の悪い情報だらけ」=「聖書は嘘だ」ということにはならないし、逆に「聖書の神が存在し、やがて人類一人一人の魂(思い)を完璧に裁く。」可能性はどうあがいても否定できないという現実があります。私は別に神の裁きがあっても不都合ありませんし、史実的にその正確さを否定できないですね。自分がオカルト好きでかつての初恋相手を奪還したいがそれを否定する聖書が嘘とはなることはありえないのです。聖書がその人達のためだけに書かれたものではなく全人類のために書かれたものだからです。
なので、たまにskさんのブログを引用して「ものみの塔は悪だ。だから聖書も嘘で罪を犯しても安心しよう。」みたいに宣伝される方もおられるのですが、skさんのブログは高等批評に対しての反証のアプローチかつものみの塔を辞めてもクリスチャンとして生きることの大切さを証明しているリアル体験談であって、「聖書が嘘」であることを伝えた主旨ではないです。なので、フラットアース、巨人や巨大生物植物の化石であるノアの洪水の考古学的証拠、その他諸々神が存在し聖書の記述の信ぴょう性があることを知的アプローチの側面で淡々と書き上げているでしょう。
アンチjwの中でも夫婦仲睦まじく穏やかな方々は聖書否定するものの「発狂」することはないです。別に罪意識に囚われることもなくあらゆる欲求が満たされるからで良いことですね。しかし欲求不満的な上に書き上げた事例の方々はとにかくヒステリックに怒りながらまるで、その怒りの矛先の対象が存在することを念頭に負の感情をぶちまけるのです。それでも「聖書なんてただの本。神もイエスも存在しない。」と発言するのですが、では存在しない対象にそこまで執着し怒るのでしょうか。漫画に登場する悪役に実際にTwitterでキレてる人っていますか。見たことないよ個人的に。
どういうことかと言いますと、つまりアンチjwは「ものみの塔が間違いである。聖書もエホバの証人とは無関係である。」ことを知っていながら、「聖書にある裁きの日」を強烈に恐れながら感情的に怒りをぶちまけるようになっているので、もはやエホバの証人よりある意味聖書を正しく認識しているわけです。要は、サタンや堕天使悪霊もある意味人間より知能が優れているので、聖書にある言葉を厳格に受け止めており定められた時(処刑の時、その時それらは拷問の裁きを受ける)を知っている故、リアルに怒りをぶちまけるわけです。それらの霊者は黙ったままではありません。自分たちの代弁者を探しています。それが聖書嫌いになった人たちです。それらに思考(原語的に霊)を吹き込み彼らの意思を伝達します。そのツールが現代ではSNSです。
ですから、今の時代にリアルに見られる元宗教二世の人たちの聖書嫌いの雄たけびは堕天使たちの生の声かもしれません。「裁きの日怖いな!そんなの来ないぜよ!あれ来るかもやっぱり来ないよ」を延々発言しています。ですから、上に書き上げたような倫理観の飛んだ人たちがいるわけです。堕天使たちからインスピレーションを受けているからではと考えられます。
もちろん児童性的虐待の被害を訴えることはそれに該当しません。ただアンチjw反聖書主義者たちは児童性的虐待や身内の自死を引き合いに出しますが、別にそれらの被害者を思いやる気持ちより自分たちの裁きの日への恐れを払しょくしたり罪ある生活の正当化のために利用しているだけと見受けられます。組織全体として咎められるべきものであることは間違いないです。しかし政治でも売電とトランプがどちらも悪であるように、児童性的虐待の被害者を除いてアンチjwとエホバの証人の対立はどちらもサタンによるただの分断工作で終わりの日のキリスト教嫌いを引き出すためのお騒がせ騒動でしかないとも考えられます。
異常な倫理観の欠落した人が歓迎されるのはそれらが正しさを求めるのではなく個人的な恨みや情欲を発散するために手段を選ばない心構えであることを証明しています。「身内が自死したわよ!初恋も奪い返すわよ!私たちはイイ女なのよ!」みたいな聖書とそれ関係なくね?みたいな個人の恨みや情欲殺意を正当化するネジの飛んだ恨めしや貞子ちゃんが多いのは、まさに堕天使が扇動しているからであり、組織の間違いを正すというよりかは個人の解決不可能な罪な悪感情のはけ口にしているからでしょう。
エホバ教VS反エホバ集団、どちらも間違いでしょう。どちらにも個人個人正当な言い分を抱えてる人はいます。しかし上に書き上げたような変な方もいますし、それが歓迎されてるのが現状です。
過去の何十年前の友人を奪い返すという謎の義務感とストーカー気質とかで現役エホバ教信者を見つけ出しTwitterにそのかつての友人を馬鹿にするような形で晒したりするわけですが、やはりこれは本当にその友人を愛するが故というよりかは、何かの執着だと思います。上に書き合げました聖書に対する嫌悪感からものみの塔に固執するのでしょう。また実質この方はエホバ教と無関係であり、とにかくエホバ教が憎い宗教二世の肩を持てばちやほやしてくれるという自己顕示承認欲求が満たされるがゆえにTwitterでアンチエホバの立場を取って親の立場なのに自分の名前にちゃん付けしたりうーばーいーつの宅配先を晒したりするような非常識出会い系中毒でしょう。
「現役エホバになったかつての友達に離婚したと言うとダメな奴と思われて避けられラインブロックされた。」という勝手な憶測で完結させていますが、急に勝手に連絡先見つけるためにエホバ教に潜入してターミネーターみたいに突然出現してかつての会いたいとも言われてない友人とかに急に馴れ馴れしく敬語も使わずべたべたヤンキーみたいに「昔話に花さかせようぜ」的なノリで無礼な態度を取るとやはり旦那さんとかにも冷笑しがちな態度で接することが多くて離婚に至るのかなとか見透かされてその人間性にドン引きされるのが普通でしょう。
そういう場の空気を読めず相手を常に冷笑する気質を治すとやはり結婚生活も上手くいく可能性はあるでしょうがそんな人と常に一緒にいるのは難しいでしょう。また常にそういうご友人も晒すようなことをしているとまともな男性はやはりそこを見抜いて距離を置くし、最終的に「若い子に言い寄られた」自慢して周りに媚を売って自分を誇示するような幼稚なことして求愛できた気になるしか成す術無しになるでしょう。それらの若い子は実際には無責任で永続する愛の関係を育む対象にはならないでしょう。それで、カルトの果てなんたらとか言いながら自分の名前にちゃん付けしたりいい年してお子さんもおられるのに出会い系アイドルと思い込んでるところが中々恥ずかしいし、エホバの証人を毒親呼ばわりできるレベルでもないと思います。エホバ教に初恋奪われたという人の一方的なストーカー情欲を焚きつけたりしていますが、やはりこれもそういう卑劣で非常識な人間性由来の行動とは思います。
エホバ教の親御さんも毒親ぽい方は多いですが、一々エホバ教に執着してる部外者の方々特に初恋やらかつての幼馴染を奪い返したいとか意気込みブロックされると逆恨みして晒すようなこの方も倫理観知的判断力常識が欠落していると一般論では言われるでしょう。そして興味深いことにこれらの人たちはスピ系ですから、やはり聖書がそれを咎めていることに嫌悪感を抱いて執着してしまうのかもしれません。スピは自己実現のための自己啓発で自分を神の存在に至らしめる有難い哲学思想です。
それで、これらの人たちの思いと聖書の提示する倫理観が乖離していたとしても「聖書が嘘ただの本」ということにはならないでしょう。これほど幼稚な知的判断力倫理観が崩壊した人たちにはやはり聖書が描く人類の軌跡や史実の流れを読み取るのは難しいでしょう。信仰抜きにしても歴史の流れを掴んで法則性を見出すためにはキリスト教世界史を読み解くある程度の常識的な学力も必要にはなります。それで親らしからぬ言動をしたり寒いギャグを面白いと思い込んで既にネットや掲示板に転がっているネタをパクって連発してしまう程幼稚であるならやはり聖書と世界情勢の関連性や共通性を見つけ出すことは難しいでしょう。
客観的に信仰を抜きにしても誰も人類を創造した神がいて一人一人をいつか良くも悪くも裁く(原語的に区別分類する)可能性は誰も否定できないでしょう。死後の世界も一切誰にも分かりませんよ。それは人類の未知な未開拓地分野であり、誰も聖書の神が存在せず死後の裁きは一切ないとは言い切る保証はないと言うことです。あくまで不信仰側の立場でいつも答えますが、上記のような知的判断力倫理観が欠落した方が大物ぶりながら「聖書嘘だよカルトの果てまでなんたらかんたら友達返せ初恋奪い返せ」と言ったところで無意味なのです。人類には一人一人良心が与えられていますが、これは進化論の産物ではないでしょう。
エホバの証人が愛の無いイカサマだと声高に叫ぶことは良いのですが、個人的な恨みや嫌悪感を正当化するネタとして自死遺族を利用して色んな不幸話を安売りして自分は罪にまみれた生活をしたり、一方でカルト二世というオーシャンブルーをターゲット層に出会い系アイドルになるつもりで賑やかしキャラになったり、初恋友人奪い返したい謎の怨念情欲束縛支配欲嫉妬に駆られる貞子ちゃんになるような人たちがいる現状を見ても「エホバ教も反エホバ」もどっちもどっちという印象しかないということです。下手すれば反エホバのこれら上記に書き上げたパターンの方が酷いでしょう。
界隈を見ていればyooさんが言うような組織に対する認識を正すことで解決される問題ではなく単純に個人個人が抱く悪感情(聖書ではそれを罪と言う)を自分で処理するしかないと思われます。そもそもskさんのブログはバリバリに洗脳された組織崇拝者(エホバの証人組織が正しく間違いすら神に用いられると考える)への丁寧で冷静な証言で、ものみの塔の間違を見つけて聖書に従わない人たちの罪を正当化するためのものではないのです。
以前に書き上げたものは長文過ぎたので削除してきれいに整えました。エホバの証人組織がインチキであることは既に十分アンチエホバは知っています。しかし、自分たちの中で解決しない悪感情(強烈な自己顕示承認欲求怨念恨み情欲嫉妬裁きへの恐怖)等がいかんせん消えないのでいつまでも「ものみの塔が間違いだから罪を犯しても大丈夫」と自分に言い聞かせできるだけ群れて安堵感を感じるしか方法がないというところでしょう。そこへ出会い系中毒の部外者の方が一般のまともな方には相手にされないから、カルト二世にターゲット層を絞り求愛して互いに負の感情としての承認欲求や憎悪のはけ口に利用しあってるような有り様です。中々人として卑劣で良心が機能しなくて人のこと毒親と言いますが、果たしてどちらがそうかなと思えます。
言葉がきつくなるのと語彙力足らずでどう表現するか慎重になっています。神は言葉一つ一つの発言で裁きの日に有罪か否かを決めると述べています。しかし、現状を辛辣になったとしてもそれ程低俗であることを表現することは致し方ないとも思います。
ヨブ記の話に戻しますが、これを万人に通用しそれの苦悩故に己の悪事を正当化できる創作話として利用できるかはやはり否になるでしょう。どういうことかと言いますと、聖書中ではヨブやエリヤ、バプテストのヨハネそしてクリスチャン含めた義人たちが環境故に苦悩を吐き出すことは咎められる罪にならないし、その都度神が勇気づけるような返答をされます。しかし「イスラエルのモンスタークレーマーのようなつぶやく者」を処罰しているケースもあるのです。
要はケースバイケースということになります。個人個人置かれた状況が異なりますので、ある人が不平不満を言っても神の目から十分許されることになるでしょうが、別の人がそれを言うと死罪に値する可能性もあるわけです。ですから、アルコール依存症みたいに酔っぱらいながら下ネタを言いつつヨブ記可哀そう!神様残酷!〇〇にー罪とか言うなと言ったところで、その人が明らかに一般人から見ても不謹慎であるなら咎められる罪になるでしょう。
その不謹慎な現代人はヨブと関係ありませんし聖書中の義人たちの生き方に倣うわけでもないでしょうし、他人の故人かつそれらが創作話と見做すはずのフィクションの登場人物の生き方を背負えた気になる必要はないということです。人はそれぞれ自分の置かれた環境に置いて良心的に生きる責任を負っているだけだからです。分かり易く言えば、身内の死を引き合いに出しながら大酒飲み酔っぱらって下ネタばかり言う人は、ヨブと何の関係もなく同情も実はできてないのです。
ですから、それらの人は無関係な人のお節介や色んな不幸話を引き合いに出して自分の悪い生き方を正当化するのではなく、怨念恨み情欲承認自己顕示欲嫉妬殺意を捨て去り改心し新しい人格を身に着け聖書の掟を守るよう努めることが求められるだけでしょう。それが福音の良い知らせとなります。聖書中の良い掟を否定する理由は、ヨブの話を引き合いに出したところで見出せないでしょう。それはヨブと神の間で完結した話で終わったことであり、上のような身内の死すら利用する人とは関係のない生じ得ない話だからです。
関係ない人のことをこれまた引き合いに出し自分の悪事の正当化のために利用するよりかは、自分が常識的な人物となり聖書の掟を当てはめていくつまり改心していくことでしか救いは見いだせないでしょう。ですから、身内の死がエホバの証人の排斥問題で生じたこと、それ自体は大問題でありそのやり方自体は批判されるべきものですが、その被害を訴えるそれらが非聖書的な生き方をしている場合その罪が正当化されるかどうかは微妙であるというわけです。人それぞれ置かれた環境が異なるので裁きも神に委ねて、それぞれが独自の環境下において生き方の責任をある程度負うことが普通になります。
現代社会でも悪いことをすれば咎められますし犯罪を犯して無くとも憎しみを抱くだけで裁かれるという聖書の原則は完全に神がやはり心理状態をベースに審判するという事前警告をしてることの意思表明になりますから、安易に不幸話やヨブの話を引き合いに出したところで己の悪が正当化されることがないとする結論は理に適っていると言えます。
しかし物見の塔が過ちを認めず言い訳ばかりするのには少し笑っちゃいますけどね(笑)めんどいから謝っとこう的な考えにはなるのかなと��
失礼。エホバの証人が中々間違った解釈を広めてたことを認めず謝罪をしないので笑っちゃうという意味です。普通はめんどくさいから謝っておこうとなりますよね。別に過去に間違ったことを教えてました神の組織とか違います。と一言いうこと自体全く苦にならないのですが、それをせず最近は差別された経験などあればそれを具体的に証拠と共に組織側に提示するように指示があったようです。
こんな感じで常に煽ってしまう振る舞いをしてしまい、余計にアンチエホバの証人側の苛立ちが増えていくわけですね。でもエホバの証人側が逆に素直に「私たちは間違っていました。でも人間は誰でも間違うことはあるし、これからはそうならないように気を付けます。神の組織でもありません。なるべく良質な解釈を心がけたいと思っています。鞭もすみませんでした。神は個々の人を裁くので宗派や教派は関係ありません。」と言えばアンチエホバの証人が満足するのかわかりませんし、寧ろその誠実な対応をされることで自分たちの悪習慣(聖書的に罪とされる生き方)を正当化できなくなり余計に苦しむのかもしれません。ですから、本来エホバの証人側がアンチを黙らせたいならきちんと普通に素直に一度謝罪をすればいいとは思います。謝罪なんて簡単ですし、心こもってなくともできるし聖書的な生き方をしない悪人が将来滅ぼうがどうでもいい的な考え方は組織的には変わらないでしょうし、とりあえず「ごめん間違ってたわ。各自きちんと聖書に倣って生きて自分の人生に責任を持ってください。我々に一々聖書の教えの指南を仰ぐことはやめてください。」とでも言えば、アンチはもうエホバの証人の間違いをあげつらうことで非聖書的な生き方を正当化できなくなるということです。実はこれが一番ものみの塔にとって得策かつアンチ側に最もダメージを与えられる反撃となるのでしょうがそこがわからないものみの塔というかサタンの分断工作なのでそうはならないのでしょう。サタンとしてはものみの塔の不可解な言動を通してアンチを炎上させて両方が真実に至ることがないように仕向けたいのだとは思います。
法的処置を取るためにあれこれ思案しているようでしてめちゃくちゃその動向が面白おかしいというか、賑わうような感じに持っていくというか、争いが絶えない方向にいつも向かうんですよね。このように人々が常に争う方向へ誘われる有様を見ると、やはりゴグマゴグの同士討ちのように見えます。ハルマゲドンも比喩的で現実の戦争というより背教クリスチャンが本物のクリスチャンを攻撃するようなローマ帝国以来からの長い霊的な戦いを示唆する可能性もあります。
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