Sunday, January 24, 2016

割礼についての論争

西暦47-48年ごろのパウロの1回目の宣教旅行は、シリアのアンティオキアから始まり、キプロス島を経てパンフリア地方、内陸部のピシデアのアンティオキア、イコニオム、ルステラ、デルベで多くの弟子たちを生み出し、信者は巨大組織の一員になったのではなく、神のご親切に託されてキリストを信じる生き方を地元で実践することになりました。


パウロとバルナバの1回目の宣教旅行が終わった西暦48年ごろには、異邦人の信者が加えられ信者の数は20万人近くまで増えていたと思われます。

パウロとバルナバはシリアのアンティオキアに戻り、神が異邦人に信仰の扉を開かれたことを会衆に伝えました。そのころ、ユダヤ地方から来たユダヤ人の信者のある者たちが、異邦人の信者もモーセの律法にある割礼を受けなければ救われないと教えはじめていました。

パウロとバルナバは、割礼の必要性を巡って彼らと論争するようになります。
アンティオキア会衆は、論争の解決のためにパウロとバルナバを含む関係者たちをエルサレムの使徒や年長者たちにの元へ派遣します。なぜなら、論争がユダヤ地方から来たユダヤ人信者たちにより引き起こされていたからです。

使徒 15:1-2
1 さて,ある人たちがユダヤから下って来て,「モーセの慣例どおり割礼を受けないかぎり,あなた方は救われない」と兄弟たちに教えはじめた。2 しかし彼らを相手に,パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時,人々は,パウロとバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが,この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた。


この事件はユダヤ人の信者にとってモーセの律法よって自らを義とするユダヤ教の習慣を捨て去ることがいかに難しいことであるかを物語っています。

人は宗教組織の要求を果たすことによって神の是認を得ることはできません。
モーセの律法は実体であるキリストの影であり、影は実体の到来とともに消え去りました。
神の是認は、実体であるキリストへの信仰によってのみ得られます。

キリスト教は本番であり、ユダヤ教は予行演習でした。
本番の到来は、予行演習の終わりを意味していました。

パウロとバルナバは小アジアにおける宣教旅行の経験をとおして異邦人の信者にモーセの律法の割礼は必要ないことを知っていました。パウロとバルナバは異邦人の改宗についてエルサレムの会衆に告げるべき音信がありました。

それで、フェニキア、サマリアを経てエルサレムに行きます。
その道中で、彼らは異邦人の改宗についての経験を語り、兄弟たちは励みを受けます。

使徒 15:3-4
3 こうして,これらの人たちは途中まで会衆に見送られた後,ずっと進んでフェニキアやサマリアを通り,諸国の人たちの転向のことを詳しく話しては,すべての兄弟たちを大いに喜ばせるのであった。4 エルサレムに着くと,彼らは会衆および使徒や年長者たちに親切に迎えられ,神が自分たちを通して行なわれた多くの事柄について細かに話した。


エルサレムの会衆には、パウロのようにかってパリサイ派だった信者たちがいました。
パリサイ派は、自分の義に熱心で律法の要求を徹底して守ることによってそれを達成しようとしていました。

キリストを信じてクリスチャンになっても、長年培った見方はすぐには変わりません。
それで、かってパリサイ派であったある人たちは、自分の車輪の轍(わだち)から抜け出せずに新たに生じている変化に柔軟性を欠く形式ばった反応をします。

使徒 15:5
5 しかし,信者となっていたパリサイ派の人たち幾人かが席から立ち,「彼らに割礼を施し,モーセの律法を守り行なうように言い渡すことが必要だ」と言った。

自分の義にこだわる人たちは、どの宗教においても同じような反応をするでしょう。

たとえば、エホバの証人のある人は「ものみの塔」が聖書を使うインチキ宗教団体であることを見破り「ものみの塔」を辞めたくても、集会や野外奉仕を守ることにこだわり気をもむかもしれません。

「ものみの塔」がアレンジした集会や野外奉仕は救いと全く関係ありません。それはモーセの律法を守ることや割礼が救いと無関係なことと同じです。


論争の震源地(発生源)であるパリサイ派の信者の多いエルサレム会衆で決着をつける必要がありました。
答は、論議の前から真のクリスチャンたちにとって明白でしたが、割礼を巡り論議が展開され、圧倒的な状況証拠と聖書的な根拠により完璧に律法主義者たちの間違いを暴きました。

結果は、真のクリスチャンたちの確信を反映しており、律法主義者の僭越な言動を戒めるものとなりました。
それは、パウロとバルナバが始めから分かっていた結論でした。

ユダヤ人から始まったキリスト教の中で、ユダヤ教の影響力が真理を歪めることは許されません。律法契約はキリストの到来により終わりました。ユダヤ人、異邦人、双方ともモーセの律法を守る義務はありません。つまりユダヤ人と異邦人を区別していた壁が取り除かれ、双方の民はキリストにおいて1つとされました。つまり同等となりました。

この基礎的な真理は、手紙により異邦人の会衆へ伝えられました。
また、諸国民の使徒パウロの手紙を読むと、クリスチャンの自由のためにユダヤ教の律法主義の根強い影響力と彼が戦い続けたことが分かります。

使徒 15:22-29
22 そこで,使徒や年長者たち,また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた。すなわち,バルサバと呼ばれるユダとシラスで,兄弟たちの中で指導的な人たちであった。23 そして,彼らの手によってこう書き送った。
「使徒や年長者の兄弟たちから,アンティオキア,またシリア,キリキアにいる,諸国民からの兄弟たちへ: あいさつを送ります。24 わたしたちの中から行ったある人たちが,わたしたちが何の指示も与えなかったにもかかわらず,いろいろなことを言ってあなた方を煩わせ,あなた方の魂をかく乱しようとしていることを聞きましたので,25 わたしたちは全員一致のもとに,人を選んで,わたしたちの愛するバルナバおよびパウロ,26 わたしたちの主イエス・キリストの名のために自分の魂を引き渡した人たちと共に,あなた方のもとに遣わすことがよいと考えました。27 このようなわけで,わたしたちはユダとシラスを派遣しますが,それはまた彼らが同じことを言葉で伝えるためでもあります。28 というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。29 すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。


24節で、「わたしたちの中から行ったある人たちが,わたしたちが何の指示も与えなかったにもかかわらず,いろいろなことを言ってあなた方を煩わせ,あなた方の魂をかく乱しようとしていることを聞きましたので,」と問題の原因についての言及がなされています。

エルサレム会衆とアンティオキア会衆の間で生じた問題が当事者間で解決されたことが分かります。
エルサレム会衆には使徒たちがおり、アンティオキア会衆にはパウロとバルナバいました。
論争の原因を作ったのはエルサレム会衆のパリサイ派からの信者たちでした。

この出来事は、会衆間の問題の解決のための統治体の存在の証明とはなりませんし、統治体からの全会衆への勅令を裏付けるものでもありません。

クリスチャン会衆の頭は、キリストであり、その下に統治体のような人間の代理機関は存在しません。

マタイ 23:8-10
8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。9 また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。


ものみの塔協会を含め、あらゆる組織宗教は、自らをキリストの地上の代理機関に仕立て上げ信徒を支配しますが、キリストの王国は、そのような目に見える世のものではありません。

ヨハネ 18:36
36 イエスは答えられた,「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。


各クリスチャンは、宗教組織や人間の指導者ではなく、天のキリストに従います。

ヨハネ 10:4, 14
4 . . . 羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです。
14 わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。

ヨハネ 21:22
22 イエスは彼に言われた,「わたしが来るまで彼のとどまることがわたしの意志であるとしても,それがあなたにどんな関係があるでしょうか。あなたは引き続きわたしのあとに従いなさい」。

各王国の子たちは、組織としてではなく個人として主人であるキリストに従います。

西暦1世紀から今日に至るまで、いつの時代にも王国の子たちが存在しました。
しかし、その存在は組織としてではありません。
なぜなら、キリストは地上に組織を持つ必要が無いからです。
事実、西暦1世紀から今日まで存続するキリストの地上の組織なるものは存在しません。
キリストの王国はこの世のものではありません。それで地上に代理組織をおく必要はありません。
キリストは地上の王国の子たちを天から直接導かれます。(マタイ 28:20)
いつの時代の王国の子たちも、個人として天のキリストに従います。地上にキリストの代理組織など無いからです。

それで、「1919年から地上の代理組織となりました。」と「ものみの塔」が言ったところで、それが真実となるのではありません。

キリストの王国は世のものではなく、同じようにクリスチャンも世のものではありません。
クリスチャンは、イエスがそうであったように、見えるものによってではなく信仰によって歩みます。(コリント第二 5:7)
彼らは天にあるものであり、地にあるものではありません。(エフェソス 1:10)
彼らの市民権は天にあると言われています。(フィリピ 3:20)
また、地上にあるものではなく上にあるものに目を留めるように励まされています。(コロサイ 3:1-2)

王国の子たちが、地上の人間の政府に宗教登記した見える宗教組織によって天のキリストを代表することはあり得ません。

ものみの塔聖書冊子協会を含め、全ての宗教組織は地上のものであり、キリストの王国ではありません。
それらは、偽りの父の欺きの働きです。(ヨハネ 8:44、テサロニケ第二 2:9)


エルサレム会衆とアンティオキア会衆間の割礼を巡る論争は、パウロとバルナバが1回目の宣教旅行からシリアのアンティオキア会衆に戻った西暦48年か49年ごろに生じました。

問題が解決し、パウロはバルナバに1回目の宣教旅行で誕生した小アジアの会衆を再訪問することを提案します。
2人はマルコの同伴を巡って言い争い分裂し、バルナバはマルコをつれてキプロスへ渡り、パウロはシラスを伴いシリアとキリキアへ進みます。

使徒 15:36-41
36 さて,何日かの後,パウロはバルナバに言った,「何よりも,わたしたちは戻って行って,エホバの言葉を広めたすべての都市にいる兄弟たちを訪ね,みんながどうしているか見てこようではないか」。37 バルナバとしては,マルコと呼ばれるヨハネも連れて行くことに決めていた。38 しかしパウロは,彼がパンフリアから先は自分たちを離れて業に同行しなかったことがあるので,彼をずっと連れて行くことを適当とは思わなかった。39 そこで怒りが激しくぶつかって,彼らは互いに別れることになった。そして,バルナバはマルコを連れてキプロスに向けて出帆した。40 パウロはシラスを選び出し,兄弟たちによりエホバの過分のご親切に託されて出かけて行った。41 彼のほうはシリアとキリキアを通って諸会衆を強めた。


パウロもバルナバも独自に宣教旅行を開始しました。
どこかの宗教組織から任命を受け宣教者として派遣されたのではありません。
キリスト教には、統治体も地上のクリスチャンの組織も存在していません。
存在しているものは、キリストに信仰を働かせる兄弟関係と天からの直接の導きです。


コリント第一 12:7-11
7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。

フィリピ 2:13
13 神が,[ご自分の]喜びとなることのため,あなた方が志しかつ行動するようにと,あなた方の中で行動しておられるからです。

ヘブライ 13:20-21
20 では,平和の神が,すなわち,永遠の契約の血をもって羊の偉大な牧者であるわたしたちの主イエスを死人の中から引き上げられた方が,21 あなた方にあらゆる良いものを備えてそのご意志を行なわせ,み前にあって大いに喜びとなる事柄を,イエス・キリストを通してわたしたちの中で行なってくださいますように。この方に栄光が限りなく永久にありますように。アーメン。


キリスト教の証の業は神のものであり、神がキリストを用いて業を導かれます。
神は、地上における神の組織と称するものを必要としません。
救いは既に達成されており、キリスト教の証の業は神の導きにより完了するでしょう。
その栄光は、神のみに帰されるもので、地上における神の組織を自称するインチキ組織が受けるものではありません。


次回は、パウロの2回目の宣教旅行(西暦49-52年)について書きます。

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