それを飲むたびに

2017/04/16 0

JW 主の晩餐

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主の記念式とイスラエルの「過ぎ越し」との違い。

クリスチャンの「主の記念式」は、イスラエルの「過ぎ越し」の日と異なり、毎年1回ニサンの14日に行う必要はないと思います。

クリスチャンは、ユダヤ教の宗教制度と異なり「見えるもの」によってではなく信仰によって歩んでいます。

コリント第二 5:7
7 わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって[歩んでいるの]ではありません

ユダヤ教の宗教制度は、神殿、祭司、犠牲、祭りなど見えるものにより支えられ運用されていました。

それらの見えるものはクリスチャンの崇拝には存在しませんし不要です。

クリスチャンそのものが神殿であるので、物質の神殿や宗教建造物は不要です。
また、キリストそのものが祭司であり指導者であるので、見える人間の代表者を必要としません。
犠牲や祭りはすべてキリストの贖いにより成就したので実体の出現とともに影は意味を失い取り除かれました。

コリント第一 3:16-17
16 あなた方は,自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。17 もしだれかが神の神殿を滅ぼすなら,神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその[神殿]なのです

ヘブライ 3:1
1 そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天の召しにあずかる人たちよ,わたしたちが[信仰を]告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。

コロサイ 2:16-17
16 ですからあなた方は,食べることや飲むことで,また祭りや新月の習わしや安息日に関して,だれからも裁かれるべきではありません。17 それらの事は来たるべきものの影であって,その実体はキリストに属しているのです。

以上のことをから分かることは、クリスチャンはニサンの14日を含めいかなる日付にも縛られていないと言うことです。

初期クリスチャンたちの実例

ペテロやパウロなどの初期クリスチャンは主の記念式をイスラエルの「過ぎ越し」のニサンの14日に毎年1回祝っていたのでしょうか。
聖書中の記録から何が分かりますか。調べてみましょう。

ペテロの例

西暦44年、ペテロはヘロデ・アグリッパにより無酵母パンの祭りの時捕縛され獄に入れられていました。ヘロデは「過ぎ越し」の後にペテロを殺すつもりでした。しかし、ペテロは、「過ぎ越し」の日の前にみ使いにより救出されマルコの母マリアの家に行き、その後カエサレアに行っています。

年に1度の無酵母パンの祭りや過ぎ越しにつて言及しているその出来事のルカの記録には、「主の記念式」についての言及はありません。

なぜでしょうか。

それは、その当時、「主の記念式」は、毎年1回「過ぎ越し」の日に行われる行事でなかったからです。

実体であるキリストの記念式は、影である「過ぎ越し」のようには行われませんし、影と同じように行う必要もありません。

影は実体を示します。
影で示されていたように、キリストはニサンの14日に死ぬことになっていました。
そして、キリストは実際にニサンの14日に死に、影が示していたニサンの14日を成就しました。
キリストがニサンの14日を成就したので、ニサンの14日は意味を失い、その役目を終え、同時にその日を守る義務も終了しました。ですからクリスチャンはニサンの14日に縛られていません。

クリスチャンはキリストの死を記念するのであり、ニサンの14日を記念しているのではありません。

使徒 12:1-19
1 ちょうどそのころ,王ヘロデは会衆のある者たちを虐待することに手をつけた。2 彼はヨハネの兄弟ヤコブを剣にかけて除き去ったのである。3 それがユダヤ人の気に入るのを見て,彼はさらにペテロをも捕縛した。(ところで,それは無酵母パンの時期であった。)4 そして彼を捕まえて獄に入れ,四人一組四交替の兵士に引き渡して監視させた。過ぎ越しが済んでから民のために彼を引き出すつもりだったのである。5 こうしてペテロは獄に入れられていた。しかし,彼のために神への祈りが会衆によって熱烈に続けられていた。

6 さて,ヘロデが彼を引き出そうとしていた時,その夜ペテロは二本の鎖でつながれて二人の兵士の間で眠っており,戸口の前の番兵たちは獄を守っていた。7 しかし,見よ,エホバのみ使いがそばに立ち,光が獄房内を照らした。彼はペテロの脇腹をたたいて起こし,「早く立ちなさい!」と言った。すると,鎖は彼の両手から落ちた。8 み使いは彼に言った,「帯を締め,サンダルを履きなさい」。彼はそのとおりにした。最後に[み使い]は彼に言った,「外衣を着けて,わたしのあとに付いて来なさい」。9 それで彼は外に出てあとに付いて行ったが,み使いを通して起きている事が現実であるとは知らなかった。事実,幻を見ているのだと思っていた。10 第一と第二の見張り番を通り抜けて,市内に通ずる鉄の門のところに来ると,それはひとりでに開いた。そして,外に出たあと通りを一つ進むと,み使いはすぐに彼を離れた。11 それでペテロは我に返って言った,「今,確かに分かる。主はみ使いを遣わして,わたしをヘロデの手から,そしてユダヤの民が待ち構えていたすべての事から救い出してくださったのだ」。

12 そして,そう考えると,彼はまたの名をマルコというヨハネの母マリアの家に行った。そこにはかなり大勢の者が集まって祈っていた。13 彼が門口の戸をたたくと,ロダという名の下女が応対に出て来たが,14 それがペテロの声だと分かると,喜びのあまり門を開けずに中に駆け込み,ペテロが門口に立っていると知らせた。15 彼らは,「あなたは気が狂っているのだ」と言った。しかし彼女は,確かにそうだと強く言い張るのであった。みんなは,「それは彼のみ使いだろう」と言いだした。16 しかしペテロはそこでずっと[戸を]たたいていた。[戸を]開けた時,彼らは[ペテロ]を見て非常に驚いた。17 しかし彼は,静かにするようにと手を振って合図をし,主がどのように彼を獄から連れ出されたかを詳しく話し,そして,「これらのことをヤコブと兄弟たちに報告してください」と言った。そうして彼は出て行き,別の場所に旅立った。

18 さて,夜が明けると,ペテロはいったいどうなったのかと,兵士の間で少なからぬ騒ぎになった。19 ヘロデは彼を念入りに捜したが,見つからないとなると,番兵たちを取り調べ,[処罰のために]彼らを引いて行くようにと命令した。その後,ユダヤからカエサレアに下って行き,そこでしばらく過ごした。

パウロの例

西暦56年、3回目の宣教旅行の終わりごろパウロは無酵母パンの祭りの期間をフィリピで過ごしました。ここでもルカの記録は「主の記念式」について一言も述べていません。

なぜでしょうか。

「主の記念式」が毎年1回「過ぎ越し」の日に行われる行事でなかったからです。
「主の記念式」は廃止された影のような取り決めではなく年に1度の行事ではありません。


もし、それが影と同じように年に1度「過ぎ越し」の日に行われるべきものなら、その手順に関する明確な指示や、初期クリスチャンの間での実例や言及が聖書中に皆無なのはなぜですか。

無酵母パンの祭りや過ぎ越しについて書いている歴史家のルカはなぜ、「主の記念式」について沈黙しているのでしょうか。

答えは、「主の記念式」は、影のように年に1度の記念式ではないからです。

使徒 20:1-6
1 さて,騒動が収まったのち,パウロは弟子たちを呼びにやった。そして彼らを励まし,また別れを告げてから,マケドニアへ旅立った。2 そこの各地を通ってその地の者たちを多くの言葉で励ましたのち,彼はギリシャに入った。3 そして,そこで三か月過ごしたが,シリアに向けて出帆しようとしていたやさき,彼に対するユダヤ人たちの陰謀が巡らされたので,彼はマケドニアを通って帰ることに決めた。4 ベレアのプロの子ソパテロ,テサロニケ人のアリスタルコとセクンド,デルベのガイオ,テモテ,アジア[地区]からはテキコとトロフィモが彼に同行していた。5 これらの者は進んで行ってトロアスでわたしたちを待っていたが,6 わたしたちは無酵母パンの期間のあとフィリピから船出し,五日以内にトロアスにいる彼らのところに来た。そして,ここで七日過ごした。

キリストは過ぎ越しの実体

キリストがユダヤ教の過ぎ越しを成就したので、クリスチャンはもはやその祭りの制限や規制の下にはいません。それら影に属する要求は過ぎ去りました。

クリスチャンは無酵母パンの祭りのために1年のある期間に縛られることはありません。
クリスチャンは毎日無酵母パンの祭りの実体の下に生きています。

コリント第一 5:6-8
6 あなた方が誇りにしている事柄は良くありません。あなた方は,少しのパン種が固まり全体を発酵させることを知らないのですか。7 古いパン種を除き去りなさい。あなた方は酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです。実際,わたしたちの過ぎ越しであるキリストは犠牲にされたのです。8 ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか

無酵母パンの要求は1年の数日間に限定されません。むしろクリスチャンの全人生が無酵母パンの祭りとなります。

クリスチャンは、1年の特定の日だけ主人であるキリストを思い起こすのではありません。
クリスチャンは常に主であるキリストを思いに留めて生涯を送ります。

イエスは弟子たちに「わたしの記念として、これを行い続けなさい。」と命じました。
イエスは、いつ、年に何回行うかについて何も述べていません。
聖書のどこにも、いつ、年に何回についての明確な規定はありません。

ただ、「これを行い続けなさい。」と言われているだけです。

では、いつ、年に何回、その他を決めるのは誰ですか。

それは、キリストの贖いを信じる個人です。
いかなる人も、またいかなる団体も、個人に代わって個人の信仰を規定したり規制することはできません。これは、神と個人の間の極めて個人的な関係であり信仰です。

ですから、この種の個人的なことを議論のテーマとすることは間違いでしょう。
個人の信仰のことで、結論などでない無駄な論議に巻き込まれるべきではありませんし、そのような無益な議論を始めるべきでもありません。

ルカ 22:19-20
19 また,[イエス]はパンを取り,感謝をささげてそれを割き,それを彼らに与えて,こう言われた。「これは,あなた方のために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」。20 また,晩さんがすんでから,杯をも同じようにして,こう言われた。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています。

コリント第一 11:23-26
23 わたしは,自分が主から受けたこと,それをあなた方に伝えたのです。すなわち,主イエスは,渡されようとしていた夜,ひとつのパンを取り,24 感謝をささげてからそれを割き,こう言われました。「これはあなた方のためのわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」。25 晩さんをすませた後,杯についても同じようにして,こう言われました。「この杯はわたしの血による新しい契約を表わしています。それを飲むたびに,わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」。26 このパンを食べ,この杯を飲むたびに,あなた方は主の死をふれ告げてゆくのであり,それは彼が到来する時にまで及ぶのです

「~するたびに」という表現は、いつでもそうすることができることを示唆しています。

実体の到来とともに、特定の日や特定の場所に依存する影に属する崇拝の様式は意味を失いました。
クリスチャンは実体と結ばれており、影の下にはいませんので、望むならいつでも、どこでも自分の信仰と愛を表せます。

クリスチャンの生き方や崇拝は、特定の日や特定の場所に依存しません。
「キリストの記念式」もニサンの14日や王国会館(他の教会の建物)に依存しません。

クリスチャンは、いつでも、どこでも、神に祈れるように、また隣人に愛を示せるように、いつでも表象物を用いて主の死を記念できます。

初期クリスチャンには愛餐(あいさん)と呼ばれる習慣があり信仰の仲間と交友と食事をともにするときがありました。
そのようなときにも表象物を用いて主の死を記念していたと思います。

ニサンの14日以外に記念する人は罪を犯していると言う人たちは、その根拠を聖書から示すべきです。
そのような主張は聖書から立証できません。

キリストの死を思い起こすための表象物の無酵母パンとぶどう酒をニサンの14日以外に食べたり飲んだりしたら罪になるのですか。また、それらの表象物に日没前にあずかったら罪になるのですか。

キリストの死を記念して表象物にあずかることは信仰の表明ではないのですか。
信仰の表明の仕方によって人は罪に定められるのですか。

人の信仰を規則で計ろうとする盲目の裁き人たちよ。

ヨハネ 7:24
24 うわべを見て裁くのをやめ,義にかなった裁きで裁きなさい

神が受け入れている者たちを罪に定めることはできません。

マタイ 12:7
7 しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。

規定違反だとして人を罪に定めるその種の推論は、廃止された律法契約の特徴であり実体に属するクリスチャンのものではありません。

影に属する取り決めや規定を重視する人たちは実体であるキリストの過分の親切からはずれ落ちています。

ガラテア 5:1, 4
1 キリストは,このような自由のためにわたしたちを自由にしてくださったのです。ですから,堅く立って,再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい。
4 律法によって義と宣せられることを求めるあなた方は,だれであろうとキリストから引き離されています。あなた方はその過分のご親切から外れ落ちているのです。

ある行為の意義は、それが起きた日や場所にあるのではなく、行為そのものにあります。
ですから、キリストの犠牲の死そのものに注意を向けるべきであり、それが起きたニサンの14日やエルサレムの2階の部屋、その他の見えるものを気にする必要は全くありません。

ご自分の犠牲の死を思い起こす助けとして、イエスは無酵母パンとぶどう酒を表象物として用いました。

クリスチャンはそれらの表象物を用いて、いつでも望むときに主の死を記念することができます。

それらの表象物は十字架よりはるかに勝った「キリストの贖いを思い出させるための助け」と言えます。

ニサンの14日や日の入りの時刻を気にする必要は全くありません。

ニサンの14日以外に、または日の入り時刻前にそれを食べたり飲んだりしたからと言って人は罪を犯しているのではありません。

そのような規定を気にする人は律法違反者として裁かれることを恐れて行動していた古代イスラエル人のようです。へまをしたら裁かれるのではないかと恐れに支配されている人たちはクリスチャンの自由を持っていません。取り除かれた影に属する規則や要求を気にする必要はありません。

ある人は、パリサイ人のように規則や決まりを守ることによって自分の義を示すことを願っているかもしれませんが、そのような自己推薦は神にとって何の価値もないでしょう。

人の心の願いや信仰の質は神ご自信が評価なさいますので、だれも他の人の決定を裁くべきでも見下すべきでもありません。

もし、確信や決定について尋ねられたら自分の思いや推論を穏やかに説明すると良いと思います。その際、自分の確信を他の人に押し付けることはできません。

ローマ 14:5-12
5 ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい。6 日を守る者は,それを主に対して守ります。また,食べる者は,主に対して食べます。その人は神に感謝をささげるからです。そして,食べない者は,主に対して食べません。それでもその人は神に感謝をささげます。7 事実,わたしたちはだれ一人,ただ自分に関してのみ生きるのではありません。また,だれ一人,ただ自分に関してのみ死ぬのでもありません。8 わたしたちは,生きるなら主に対して生き,死ぬなら主に対して死ぬからです。それゆえ,生きるにしても死ぬにしても,わたしたちは主のものです。9 死んだ者にも生きている者にも主となること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです。

10 それなのに,あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また,なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになるのです。11 「エホバは言われる,『わたしが生きているごとく,すべてのひざはわたしに対してかがみ,すべての舌は神を公に認めるであろう』」と書かれているからです。12 それですから,わたしたちは各々,神に対して自分の言い開きをすることになるのです。

ペテロ第一 3:15
15 むしろ,あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい。

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プロフィール



1972年にバプテスマを受けてクリスチャンになりました。

その後、エホバの証人として宣教活動を40年ほど行い、長老のときに「ものみの塔協会」の方針と異なる立場をとったために長老を削除されました。

長年のエホバの証人としての人生は「ものみの塔協会」の崇拝の様式とキリストの教えとの不調和を経験することになり、「ものみの塔協会」の始まりからの歴史をインターネットを用いて調査し、この団体がロスチャイルド資本によるシオニズム運動の器として始まったこと、宗教組織を利用したロスチャイルド資本の国際投資企業であること、小児性愛者の不適切な扱い、預言や教理上の破綻などの腐った実を知りました。

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