Saturday, June 27, 2015

寄付について

最近(2015年に入り)、ものみの塔聖書冊子協会は、各会衆に定額の寄付を求めるようになりました。王国会館ローンの返済を帳消しにするので、その額相当の定額寄付を協会に送るように指示しています。また会衆は50万円程の手持ち金を残し、余剰金はすべて協会に送るように求めています。

ローンの返済をなくし、そのかわりに相当額の寄付への変更は、
売買契約が、賃貸契約に変更されたようなものです。
結果として、会衆は王国会館使用のためにいつまでも定額寄付を協会へ送るようになりました。



「も塔」は、宗教組織の維持・活動のための寄付を子供を含めすべての信者に励ましています。

子供のアイスクリーム代も分捕るつもりみたいです。

かわいい子供たちに「アイスクリーム代をよこせ!」と直接言うよりも、
子供自らがお金を手放すように仕向けるのが「も塔」のやり方ですよ。

その方法は、
まず親が子供の前で寄付をして「も塔」は今寄付を必要としていることを子供に印象づけます。
これで、子供はアイスクリームのためのお金の使い方について親からのいわゆる正しい圧力を受けます。

もし、親の示した正しいことを無視するなら子供の小さな心は罪悪感に苦しむことになります。そのような余計な葛藤の末に子供はアイスクリーム代を寄付箱に入れます。そうすることがこの種の罪悪感から逃れる唯一の実際的な方法だからです。

これが、「も塔」の洗脳のテクニックです。
ピアープレッシャーとちょっとした後ろめたさを使います。
これで、大人も子供もイチコロって感じですかね。(殺虫剤みたいね。)

John Cedarsのビデオの最初のビデオ(CO wr15 E001 r720P)を見てください。



ここから、聖書的な考察を書きます。

憐れみの施しについて、イエスは右の手のしていることを左の手に知らせないように教えました。

マタイ 6:3-4
3 しかしあなたは,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。4 あなたの憐れみの施しがひそかに[なされる]ためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。

そうであれば、寄付について親はもっと賢く自分の子供を導くべきでしょう。
また、子供にその気もないのに、大人の思いを押し付けることは教育ではないと思います。
子供が、寄付の意味が分かるようになるまで待つ方が賢いと思います。

子供は、親とか兄弟、友達など自分の見ている人に与えることしか分からないでしょう。
自分の目の前にいる貧しい人や困っている人を助けることは直感的に分かるでしょうけど、組織にお金やものをあげる必要性など分かるはずがありません。

大人でさえ、自分のお金を見知らぬ人に託すことには慎重になります。
会社や組織となると、お金を託す人を特定することは不明になります。

自分の住んでいる地域の知っている、また会える、また連絡が取れる人であれば自分の寄付が何に使われたかを確認できると思いますが、世界的規模の巨大組織となるとそれは無理でしょう。
国際宗教組織の「も塔」も同じで、「世界的な業へ」と称される寄付の使途についての詳細の報告を入手することはできないできないでしょう。たいていの信者は、組織を信頼し使途不明なまま定期的な寄付を行うことになります。なぜなら組織がそのように教育しているからです。

これは、西暦1世紀の初期クリスチャンたちが残した寄付の先例と異なります。

クリスチャンギリシャ語聖書にある寄付の目的は、貧しい人たちや困窮している人たちを助けるためのもので、その目的は単一でした。それは、組織の維持や拡張のために使われるファンドではありませんでした。

マタイ 19:21
21 イエスは言われた,「完全でありたいと思うなら,行って,自分の持ち物を売り,貧しい人たちに与えなさい。そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。それから,来て,わたしの追随者になりなさい」。

ローマ 15:25-26
25 しかし今は,聖なる者たちに奉仕するためエルサレムに旅をするところです。
26 マケドニアとアカイアの人々が,エルサレムにいる聖なる者たちのうちの貧しい人々に寄付をして,自分たちの物を喜んで分け合おうとしたからです。

エルサレムの貧しい聖なる者たちを助けるために寄付を集めることがテトスにより開始され、それは1年ほど続きエルサレムの貧しい人たちへ届けられることになりました。
こ のように誰が何の目的で寄付を集めたかは明確であり、その親切に与える業についてパウロは、その業を完遂するようにコリント第二8-9章で励ましを与えて います。そのパウロの励ましの中で用いられている表現を「も塔」の代表者のレットは組織拡張の業のために都合よく用いてJWからの寄付を募っています。

コリント第二8章の全文を読んでください。

コリント第二 8:1-24
1 さて,兄弟たち,マケドニアの諸会衆に与えられた神の過分のご親切についてあなた方に知らせます。2 つまり,苦悩のもとで大いに試されつつも,彼らの満ちあふれる喜びと非常な貧しさが,彼らの寛大さの富を満ちあふれさせたことです。3 これは彼らの実際の能力に応じて,いや,実際の能力以上のものであった,とわたしは証言します。4 それでも彼らは自ら進んで,親切に与える[特権]と,聖なる者たちへの奉仕にあずかることとをわたしたちに請い求め,しきりに懇願したのです。5 そして,わたしたちが希望していたとおりになったばかりでなく,彼らは神のご意志のもとに自らをまず主に,そしてわたしたちにささげました。6 そのためわたしたちはテトスに,彼がそれをあなた方の間で始めた者な のだから,やはり彼が,親切に与えるこの同じ業をあなた方の間で成し遂げるようにと励ますことにしました。7 それにしても,あなた方があらゆることに,すなわち信仰と言葉と知識と全き真剣さに,またあなた方に対するわたしたちのこの愛に満ちあふれているのと同じ く,この親切に与える業にも満ちあふれるようにと[祈ります]。
8 わたしが[こう]言うのは,あなた方への命令としてではなく,ほかの人たちの真剣さを考えてのことであり,あなた方の愛の純真さを試すためなのです。9 あなた方は,わたしたちの主イエス・キリストの過分のご親切,つまり,富んでいたのに貧しい者となられ,ご自分の貧しさを通してあなた方が富む者となれる ようにしてくださったことを知っているからです。
10 このことについてわたしはさらに意見を述べることにします。このことはあなた方の益になるからです。というのは,あなた方はすでに一年前に,ただ単に行なうことだけでなく,[行ない]たいという願いをも起こしたからです。11 では今,それを行なうことをやり遂げなさい。 行ないたいと願ったその気持ちのとおりに,あなた方の持っているものの中からそれをやり遂げるためです。12 進んでする気持ちがまずあるなら,持っていないところに応じてではなく,持っているところに応じて特に受け入れられるのです。13 このように言うのは,ほかの者には易しく,あなた方には厳しく,というつもりではないからです。14 むしろ,均等を図ることによって,あなた方の当面の余分が彼らの欠乏を埋め合わせ,その結果,彼らの余分も同じようにあなた方の欠乏を埋め合わせ,こうし て均等になるためなのです。15 「多くある者にも多過ぎることなく,少ししかない者にも少な過ぎることはなかった」と書かれているとおりです。
16 さて,あなた方に対する同じ真剣さをテトスの心の中に入れてくださった神に感謝がささげられますように。17 というのは,彼は実際に励ましに応じたからです。しかも,非常に真剣な彼は,自ら進んであなた方のもとに出かけて行こうとしているのです。18 しかしわたしたちは彼と共にひとりの兄弟を遣わします。それは,良いたよりに関連してその称賛がすべての会衆に広まっている人です。19 それだけではなく,この人は,主の栄光のため,また,進んでする気持ちの証拠としてわたしたちが扱うこの親切な贈り物に関連し,わたしたちの旅の同伴者と して諸会衆から任命された人でもあります。20 こうしてわたしたちは,自分たちの扱うこの惜しみない寄付に関して,だれからもとがめられることのないようにしているのです。21 わたしたちは,「エホバのみ前だけでなく,人の前でも正直な備えをする」からです
22 さらにわたしたちは,真剣な人であることをわたしたちが多くの事において幾度も確かめ,しかも今やあなた方に対する厚い信頼のゆえにいっそう真剣になって いるわたしたちの兄弟を,彼らと一緒に遣わします。23 ですが,もしテトスについて何か疑問があるというのであれば,彼はわたしと分け合う者であり,あなた方の益のための同労者です。また,わたしたちの兄弟た ちについてであれば,彼らは諸会衆の使徒であり,キリストの栄光です。24 ですから,彼らに,あなた方の愛と,わたしたちがあなた方について誇った事柄との証拠を,諸会衆の面前ではっきり示してください。


初期クリスチャンたちが示した寛大な与える業は、組織拡大のためのものではなく、困窮している人たちを助けるためのものでした。その種の与える業は、関係者全てが誰が何の目的で寄付集めを企画したのかを知っていました。またその業は企画されたとおりに集めたお金が全て困窮している人たち確実に届くように見届 けられました。

この先例から、クリスチャンは個人的にも、またグループとしても寛大に与える業に与れることが分かります。またグ ループで行う場合、寄付集めの発起人や目的は明らかであり、強要されることもなく、賛同できる人たちが自分にできる範囲の寄付をしたことが分かります。マ ケドニアの場合は、ある程度のお金が溜まるまで1年ほどかかっています。


エルサレムの神殿には、宝物庫があり、イエスは貧 しいやもめの小額の寄付を高く評価されました。当時はユダヤ教の取り決めの維持のために寄付がなされていましたが、ユダヤ教の終わりとともにキリスト教に おいてはそのような寄付の取り決めは廃止されました。キリスト教は、維持を必要とする物質の神殿もないのでその種の寄付は不要ですし、また、お金のかから ない、「ただで受けたので、ただで与えなさい。」を実践できる取り決めであると言えます。

ただで、与えることは、イエスが高く評価した貧し いやもめの与える精神と共通するものがあります。それは寛大な精神の表れであり、それをクリスチャンは親も子供も学ぶ必要があると思います。そしてその寛大な精神に動かされて貧しい人や助けを必要としている人に喜んで与えることができます。それは、宗教組織の施設の維持管理や拡大のための寄付や強要された定額の寄付のようなものではないと思います。

マルコ 12:41-44
41 それから[イエス]は宝物庫の箱の見えるところに座り,群衆が宝物庫の箱の中にお金を入れる様子を見守っておられた。すると,大勢の富んだ人たちがたくさんの硬貨を入れていた。42 そこへ,ひとりの貧しいやもめがやって来て,小さな硬貨二つを入れた。 それは価のごくわずかなものである。43 すると[イエス]は弟子たちを自分のもとに呼んでこう言われた。「あなた方に真実に言いますが,この貧しいやもめは,宝物庫の箱にお金を入れているあの人 たち全部よりたくさん入れたのです。44 彼らはみな自分の余っている中から入れましたが,彼女は,その乏しい中から,自分の持つもの全部,その暮らしのもとをそっくり入れたからです」。

マルコ 14:7
7 あなた方にとって,貧しい人たちは常におり,あなた方はいつでも望む時に彼らに善を行なえます. . .

ガラテア 2:10
10 ただ,わたしたちは貧しい人たちのことを覚えておくようにとのことでした。わたしはまさにその点でも真剣に励んできました。

ヤコブ 1:27
27 わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです。

ヘブライ 13:16
16 さらに,善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです。


物質の神殿を中心に行われていたユダヤ教の崇拝の様式が廃止され、物質的な資産が不要なキリスト教の崇拝の様式においては、祭りや什一献金や捧げ物により養われる宗教指導者たちは不要になり、その種の寄付の取り決めは廃止されました。キリストの弟子たちは、キリストがそうであったように、他の者の寄付によっ て生計を立てるのではなく、手ずから働き「ただで与える」宗教活動を行いました。

クリスチャンたちは、ユダヤ教の崇拝に倣って会堂を建設し たり、年3回の大会を行ったりはしませんでした。そのようような廃止されたユダヤ教に倣った崇拝の様式や、それを支える寄付の取り決めはクリスチャンとは 無縁のものでした。キリスト教の発展によって各地に会衆が形成され行きますが、崇拝のための集会場を建設したとか、そのための寄付を募ったとかという記録 は聖書にありません。

ですから、「も塔」を含め他の組織宗教が行っているユダヤ教的な崇拝のやり方はクリスチャンのものではないでしょう。
その内容は、
「来年度の王国の業(王国会館のさらなる新設と改築、翻訳事務所の建設、ビデオスタジオの建設など)の予算が現時点での寄付収入見込みを上回るので、寄付をお願いします。」というものでした。
これは、聖書のクリスチャン会衆の姿ではありません。
神によって破棄されたユダヤ教的な中央集権組織宗教の姿です。


「も塔」はよく幕屋や神殿建設の際に古代ユダヤ人がした寄進物を引き合いに出し寄付を励まします。

しかし、そのような取り決めは、律法契約とともに破棄されました。

クリスチャンは、ユダヤ教システムと異なり、中央集権でもなければ、崇拝の場所や建物の維持管理のための費用分担の責任もありません。
クリスチャンギリシャ語聖書は、キリスト教が、ユダヤ教と異なり、国家のような宗教組織でないことを教えています。
キリスト教の名の下に宗教組織を立ち上げ信者に什一を求め宗教活動を行っているものは全てインチキです。


イ ンチキ宗教組織は、寛大さを励ます聖書のことばをうまく利用して自らの行為があたかも聖書的であるかのような印象を与えていますが、そもそもクリスチャンの「与えること」は宗教組織を経由しません。誰でも自分の心に動かされて貧しい人や助けを必要としている人に与えることができますし、聖書はそのような寛 大さと思いやりを励ましています。

人の寛大さと思いやりを、自分の目的のために利用するものたちは言い開きを求められるでしょう。


「も塔」をはじめ多くの宗教組織は寄付を促すために子供たちを用い人の感情に訴える手法をよく使います。TVの宣伝でもかわいい子供たちがよく用いられていますよね。それと同じですね。


しかし、基本的に、子供は受ける側であり、与える側ではありません。
子供が自らそう望むなら与えることは喜びとなりますが、
私(親)が寄付しているのであなたもやりなさい的な教え方は、助ける能力のない者、あるいは助ける気のない者に、あなたも私のように助けなさいと言っているようなものです。

どこか間違っています。

自発心は強要できません。
そうするなら、それはもはや自発心ではなくなります。
親は模範は示せますが、子供の自由を大人の意向で作り出す圧力やそれから生じる罪悪感で制限するべきではないと思います。これは、寄付に限らず、集会、伝道、その他のつまらない規則についても同じことが言えます。

通常は、
自分の行った親切を他の人に知らせる必要はありません。
自分の資力を越えた計画を他の人の親切を当てにして推し進めるべきでもありません。

キリストの教えを守るなら、
自由でいられますし、
他の人に不要な重荷を負わせることもありません。

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